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推奨の本
≪GOLDONI/2008年3月≫

高村 光雲 『幕末維新懐古談』
 1995年  岩波文庫

 かくてちょうど私の年齢は二十三歳になり、その春の三月十日にお約束通り年季を勤め上げて年明けとなりました。すなわち明治七年の三月十日で文久三年の三月十日に師匠へ弟子入りをしてから正に丸十一年で(礼奉公が一年)年明けすなわち今日の卒業をしたのでありました。
 で、師匠も大きに喜んでくれられ、当日は赤飯を炊き、肴を買って私のために祝ってくれられ、私の親たちをも招かれました。その時父兼松は都合あって参りませんでしたが、母が参り、師匠の前で御馳走になりました。その時師匠は改めて私に向い、将来について一つの訓戒をお話しであった。
 「まず、とにかく、お前も十一年というものは、無事に勤めた。さて、これよりは一本立ちで独立することとなれば、また万事につけて趣が異って来る。それに附けていうことは、何よりも気を許してはならんということである。年季が明けたからといって、俺は一人前の彫刻師となったと思うてはいかぬ。今日まではまず彫刻一通りの順序を習い覚えたと思え。これからは古人の名作なり、また新しい今日の名人上手の人たちのものについて充分研究を致し、自分の思う所によっていろいろと工夫し、そうして自分の作をせねばならぬ。それにつけて、将来技術家として世に立つには少時も心を油断してはならぬ。油断は大敵で、油断をすれば退歩をする。また慢心してはならぬ。心が驕れば必ず技術は上達せぬ。反対に下がる。されば、心を締め気を許さず、謙って勉強をすれば、仕事は段々と上がって行く。また、自分が彫刻を覚え、一人前になったからといって、それで好いとはいわれぬ。自分が一家を為せば、また弟子をも丹精して、種を蒔いて、自分の道を伝える所の候補者をこしらえよ。そして、立派な人物を自分の後に残すことをも考えなくてはならぬ。お前の身の上についてはさらにいうこともないが、これだけは技術のために特に話し置く」
 こう東雲師は諄々と私に向って申されました。私は、いかにも御もっとものお話故、必ず師匠のお言葉を守って今後とも勉強致します旨答えました。
 すると、師匠は、至極満足の体でいられたが、さらに言葉を継ぎ、
 「お前の名前のことについてであるが、今後はお前も一人前となることゆえ、名前が幸吉ではいけない。彫刻師として彫刻の号を附けねばならぬ。ついては、お前の幼名が光蔵というから、この光に、私の東雲の雲の字を下に附けて光雲としたがよろしかろう。やっぱり幸吉のコウにも通っているから……」
と申されました。
 (「年季あけ前後の話」より)

 木彫りの世界はこういうあわれむべき有様でありましたので、私は、どうかしてこの衰頽の状態を輓回したいものだと思い立ちました。ついては、何事によらず、一つの衰えたものを旺んにするにはまず戦わねばならぬ。戦争をするとすると兵隊が入ります。で、その兵隊を作らねばならないとまず差し当ってこう考えました。すなわち木彫界の人を作らなければならない。人の数が多くなればしたがって勢力が着いて来る。そうすれば世に行われると、まあ、見当をつけたのであります。そこで、そういう手段でその人を殖やす方法を取るべきであるか……ということになるのですが、どうといって、弟子でも置いて段々と丹精して、まず自分から手塩に掛けて作るよりほかはない。……と気の長い話でありますが、こう考えるよりほかに道もありませんでした。
 ところが、木彫りは今も申す如く、衰えていて、私自身がその当時現に困窮の中に立ち、終日孜々汲々としていてようやく一家を支えて行く位の有様であるから、誰も進んで木彫りをやろうというものがありません。私自身が弟子を取りたいと考えても、弟子になりてがないという有様である。それは無理からぬ事で、木彫りをやってみた処で、世間に通用しない仕事と看做されていることだから、そういう迂遠な道へわざわざ師匠取りをして這入って来ようという人のないのは、その当時としてはまことに当然のことであったのでした。
 それはそうとして、とにかく私は弟子を取って一人でも木彫りの方の人を殖やす必要を感じている。でその弟子取りを実行しようと思うのですが、それがまた容易には実行出来ないのであります。……というのは、弟子を置けば雑用が掛かります。自分の生計向きは困難の最中……まず何より経済の方を考えなければならない。弟子を置いても弟子に食べさせるものもなく、また自分たちも食べて行けないとあっては、何んとも話が初まらぬわけでありますから―が、まあ、食べさせる位のことはどうやら出来る。自分たちが三杯のものを二杯にして、一杯ひかえたとしても、弟子一人位の食べることは出来る。しかし、暑さ寒さの衣物とか、小遣いとかというものを給するわけには行かない。たとえば私の師匠東雲師が旺んにやっておられた時代に、私たちのような弟子を置いたようなわけとは全く訳が違います。で、なるべくならば、衣食というようなことに余り窮していない方の子弟があって、そういう人が弟子になりたいというのならば、甚だ都合が好いのでありました。しかし、困ってはおっても身の皮を剥いでも、弟子を取り立てたいという希望は充分にあったことで、これが私の木彫り輓回策実行の第一歩というようなわけでありました。
 (「門人を置いたことについて」より)