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八世市川団蔵について(其の六) <昭和四十七年八月執筆>

 一六〇三年、出雲の阿国による京・四条河原での歌舞伎躍りの興行に始まる歌舞伎の歴史は、多く、国家権力との対立の歴史であった。たとえば、徳川幕府による女歌舞伎・若衆歌舞伎の禁止、心中物の執筆・上演の禁止などは、歌舞伎が下層の民衆の、権力に対する批判精神を培うことを阻むためのものであった。そして、そのような徳川幕府の演劇統制の強化に抗して、歌舞伎は幕末まで、本来の「傾(かぶ)きものの精神」を貫いたのである。しかし、明治になって、歌舞伎は「様式」の中に篭り、「傾きものの精神」を喪失させて行った。そして、今日残っているものは、「傾く」ことを忘れた役者と、それを取り巻く人間と、その低劣さ、これらを増長させることにもなっている興行上の欠陥、という「歌舞伎の衰退」現象である。

  退屈な「菅原」(菅原伝授手習鑑=引用者注)の大序のうち、私は型に順応した神話の世界をながめていた。この時間は、人間が神の世界からとりもどした芸能を、ふたたび神の世界へ返上するための儀式の時であった。民族学者がいけないのである。民族学者が展開した学問の世界は、決して科学の名で呼ぶに値するようなきびしいものではなかった。国立劇場に巣食う末派民族学派は趣味的な芸能行事の復活を、古典の復活と勘違いしているのだ。貧乏人が急にお金を持たされて、うれしがって、いろいろな思いつきを田舎大尽のように俳優におしつけ、俳優は俳優で、お旦那をとりまく野だいこの了簡で、ところどころ国立劇場の顔を立て、芸の分野では、在来どおり、型通りのお芝居やってのけて、糊口にありつく。型通りやられたらお芝居はまるで型なしである。がそんなことは知ったことじゃない。このような精神の成り上がり者と取り巻きとが、演劇造りする場―それが国立劇場の実態ではないのか。
(「伝統演劇の発想」)
(続く)