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『草桔梗 蔵俳の碑へ 通う径』(小汐正実作)2005年6月4日掲載

 昭和47年6月4日の午後、四国一周の気ままなひとり旅を満喫していた大学三年生は、それまでの僅か二十年の人生でもたぶんもっとも緊張と敬虔さが混じりあった複雑な心境で、船のデッキに立っていた。

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 昭和41年6月5日の朝だったか、その翌年春に亡くなった母が、読んでいた新聞の社会面を広げたまま黙ってその場を離れた。私は訝しげに母を目で追い、そして新聞を手にした。そこには、歌舞伎の老優の入水を伝える記事が大きく載っていた。私の高祖父が九代目市川団十郎の岳父ということもあり、母も戦前から親しく行き来していた海老蔵後の十一代目団十郎(堀越の治雄叔父)が半年前に亡くなったばかりで、老優の訃報に接して、悲しみが募ったのだろうか。十一代目を思い出したのか、自身の間近に迫った死を思い、記事の続きを読めなくなったのだろうか。
 その年の4月、歌舞伎座での彼の「引退披露興行」と銘打った公演で、『助六』の髭の意休を観たばかりで、(この老優を偲んで作家・網野菊が書いた『一期一会』という短編の中に書かれていたかも知れないが、自身の引退興行で殺される役を演じるということは如何なものだろう)芝居で殺されたその彼が自殺をしたということに、大きな驚きを感じた。
 老優はこの引退興行を勤め上げた翌5月、念願の四国霊場八十八ヶ所の巡拝の旅に出て、それを無事に済ませて小豆島に渡り、この島の霊場四十八ヶ所をも巡拝し終えて、この地の宿に草鞋を脱いだ。そして一泊したあと、翌日深夜発の船から暗い海へ身を投げた。デッキに靴が揃えて置かれており、覚悟の自殺とも報じられた。享年八十四であった。
 老優の七回忌にあたる47年6月4日を、彼が乗ったと同じ時刻の船の上で迎えようと、一週間前から四国に入った。徳島では大学の教室や図書館、学生食堂に闖入、高知・桂浜では憧れてもいない坂本竜馬に、松山・道後では浴場で機嫌の良い漱石になりきるという、いかにも凡庸な大学生の気楽気ままなひとり旅だった。弘法大師との同行二人のお遍路さんと数ヶ所の札所で出会い、食堂で昼食をともにしたりした。それぞれが思いを胸に秘めながら、決して安楽とは言えない巡拝の旅の途中のことで、遍路ではない暢気な大学生の旅の目的が、6年前と同じ季節、同じ遍路道を歩み播磨灘に消えた老優を偲ぶものとは、お遍路のどなたも思い及ばなかっただろう。
 老優のこの世の最期の泊は、質素で落ち着いた宿だった。島の案内所ででも教わったのか、偶然に見付けた宿かは判らない。人柄も芸も地味と言われた老優にとって、自分の質に似たこの宿で過ごした人生最後の一日はどんなものだったのだろう。
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 昭和47年6月4日の午後、神戸に向う船は混雑していて、デッキにも大勢の乗客が出ていた。私は老優が身を投げた海に、乗船前に用意していた草桔梗の一枝を投げ入れ、手を合わせた。宿の脇にひっそりと生えていた、背の低い、花房が1センチにも満たない青紫の、目立ちはしないがきれいな草桔梗は、死への旅に赴く老優の目に映っただろうか。
 今日6月4日は、老優・八代目市川団蔵の39回目の命日である。

 (私はこの年の夏、日比谷の図書館に通い、団蔵関連の資料を渉猟し、エッセイを書きました。その原稿は近々にこのホームページに載せる予定です。二十歳の若書きにして拙い文章です。ただ、この旅とひと夏掛けた原稿書きを終え、浄瑠璃の研究者になる夢を諦め、見識のある製作者に、そして良識のある劇場主になろうと思いました。爾来三十有余年、その願いは力足らず、いまだ成就していません。ただ、私にとっては自分の道を決めた小論だと思っています。是非ご笑読をお願いします。)