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八世市川団蔵について(其の三) <昭和四十七年八月執筆>

 団蔵は、前述の『朝日ジャーナル』のインタビューに答えて、自分は父(七世市川団蔵)が明治劇壇で団菊(九世市川団十郎・五世尾上菊五郎)と並べられたほど偉大であったから、団蔵の名を襲うのが嫌であったし、自分は「目も小さい、声もよくない、体も小さい、セリフが流れるように言えない」ので、役者として不適格である、と語っている。
この団蔵の自覚は、三島が、「役者の自意識というものは、芸だけに働いてゐればよいもので、自分の本質に関する自意識は芸の邪魔になることが多い」(前掲書)と述べているように、本質的かつフェータルな自覚である。
団蔵は四十歳の時に、自分を省みて引退を申し出たが、興行主の松竹から留意させられた。それどころか、昭和十八年には、前名の九蔵から、強引に「八世団蔵」を襲名させられたのである。そしてその二年後、「本当に引退を決意した」のだが、また留意させられたのである。ア・プリオリに役者としての資性が劣っていることを、若年の頃から熟知していた団蔵の不幸は、終生彼に付き纏うそれであった。

  若年の団蔵には、それだけの(六世尾上菊五郎や初世中村吉右衛門などのような・引用者注)芸に対する欲や執着がなかったのだ。当然かれ(父・七世団蔵)は、八世に芸を教えようとはしなかった。「出来るまで自分で工夫してやれ」とつきはなした。そして叱るときには、「おれの腕を洋小刀で削ると金貨が出る。手前の腕は世間並の血だけしか出めェ」といったという。
今尾哲也は、「団蔵親子」(『変身の思想』所収)で右のように述べたあと、七世団蔵の言葉、「世間並の血」に着目して、次のように続けている。

 「世間並の血」とはいいえて妙である。まさに八世は「世間並の血」しかもちあわさなった。(中略)その「世間並の血」しかもっていなかった手低のかれは、ついに生きて眼高をあらわすことができなかった。そのかわり、「世間並の血」をもつ一人の平凡な人間として、死をもって、「雷の如き批評」を下したのである。 (続く)