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新刊書籍から
≪GOLDONI/2010年11月②≫


 『公共文化施設の歴史と展望』 
 徳永 高志著  晃洋書房  2010年

 1 帝国劇場の成立
 1)帝国劇場と国立劇場
 戦前、日本の劇場のほとんどは、私設劇場であった。その背景には、近世の劇場が神社の付設舞台を除いて私設劇場であり、明治維新後は、神社の付設舞台も、大規模なものは民間に経営が移ったことがある。こうした状況のなかで、1880年代より国立劇場設立の模索が始まる。この時期の国立劇場構想は、全国各地に展開した2000におよぶ既存の私設劇場を前提とすることなく、もっぱら国家の近代化と歩調を一にすることに意が用いられていたと考えられる。それは貴族社会の宮廷劇場が市民社会の成立にともなって国立劇場となったヨーロッパの多くの例とは異なっていた。すなわち、伝統的な私設劇場を踏まえず、もっとも公的な劇場の建設が企てられたのである。結局、戦前に国立劇場が設立されることはなく、辛うじて構想の一部が「帝国劇場」という私設劇場として実現したに過ぎなかった。国立劇場は、戦後の1966年に、伝統芸能に限った劇場として設立された。(後略)

 2)国立劇場構想の前提
 近世においては、芸能者は身分的に低い位置に置かれていた。全体として、弾左衛門や車善七手下の支配であり、また興行権もにぎられていた。穢多身分や非人身分ではない芸能者もそれに準ずるあつかいを受ける者が多かった。江戸時代における芸能者の頂点にあって武士に近い身分であったといわれる幕府能役者ですら扶持米「猿楽扶持」として最下等の米が支給されたうえに観世太夫は浅草新堀川の「常浚」の役を負担しなくてはならなかった。
 それでも歌舞伎役者の一部は、竹光ではあったけれども帯刀し、一般民衆の及びもつかない高収入を手に入れた。「千両役者」との言葉があるが、実際に、寛政期には何人もの千両役者が誕生している。そして身分をこえた人々から熱狂的な支持を受けたのである。この状況は幕府の容認すべからざるものであった。幕府は江戸における芝居を「江戸三座」に限定し、猿若町にあつめて囲い込んだ。また、天保期以降、それ以外の地域における「遊芸」「歌舞伎」「浄瑠璃」「狂言」「操」「相撲」や神事・祭礼の際の「芝居」「見世物同様之事」で見物人を集めることを、浪費につながり風俗がみだれるとして、たびたび禁止している。幕末には、江戸以外の地域から猿若町に芝居見物に来るのすら禁止していた。民衆が封建的抑圧のなかで、芝居などの芸能に自己解放の期待を込めるのを恐れたのであった。
 この方針は、明治維新後も直ちに転換されることはなく、既存の劇場と芸能に対する忌避と抑圧を前提として、近代日本の劇場製作や国立劇場論もスタートすることになる。(後略)
 
 2 国立劇場の構想
 3)未完の国立劇場
 近代日本における国立劇場論は、おおむね次のような変遷を遂げた。すなわち、①明治初年の欧化主義のなかで、ごく一部の要人が国立劇場を体験した時期、②1880年代以降の演劇改良運動の隆盛下、演劇の近代化を構想する一環として国立劇場を考え始めた時期、③20世紀に入り、大都市部の劇場が帝国劇場という私設劇場として実現する時期、④地方にいたるまで劇場の建設がすすんだことを背景に、演劇を啓蒙の手段として積極的に捉え、その一助として国立劇場の推進が唱えられた1920年代(1930年代後半の構想も総動員体制下の思想善導という側面はあるものの広い意味で同じ文脈で捉えられよう)、⑤戦後、文化国家建設の礎として、幅広い芸能を対象とした国立劇場が考えられていた時期、⑥高度経済成長の開始により国民生活が変化し、急速に衰退した伝統芸能の維持発展の方途として国立劇場が実現した1960年代、という変遷であった。とくに②④⑥の時期に、国立劇場は国家の威信を体現するものとの議論が盛んとなり、そのために、しばしば国立劇場が誰にどのように運営され、いかなる芸能を上演するかという議論は後景に押しやられた。
また、国立劇場をめぐる議論には、1890年代には日本的伝統と欧化という2つの要素が混在し、1920年代になるとそれに3つ目の要素として国民の啓蒙が、戦後は4つ目の要素として文化国家の強調が加わった。これらのレベルの異なる要素は、1990年代まで十分に整理されることはなかった。
(「第5章 国立劇場の系譜」より)