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赤穂浪士切腹の日に

小山田一閑、岡林杢之助の自刃
 
 義徒に関係があって、一挙の後、節に死んだ者が両人ある。ここにこれを言及するの必要を認める。
 その一人は小山田一閑と称する八十一歳の老人である。彼は初め十兵衛と称し、浅野家に仕えて百石を食し寔に律義な定府の士であった、が、老年に及んで、家督をその子庄左衛門に譲り、一閑と号して隠居し居た。既にして主家の凶変となったので、一旦町屋に退いたが、さすがは一閑平生の教訓があるので、庄左衛門は義盟中の一人となり、当初は熱心に復讐の議に参預し居た。一閑これを視て、心に喜び、その身を娘の方に寄せて、僅かにその日を送りながらも、何時かは本望の成就するようにと祈っていた。折から一党復讐の快挙は発し、その評判は八百八街に拡がった。誠忠なる一閑はホクホクと打ち笑み「さては亡君の御鬱憤を散じたか。ヤレヤレ嬉しい。伜も必らず一党の中にいるはずでおざる」と、疑いもせず、人にも語った。すると一党の人名録は読売りとなって、市中に散布する。一閑これを手に把って、打ち反し打ち反しその書を覧れども、生憎にして伜の名が見えぬので、いかなる訳ぞと疑い疑い、段々これを探ってみれば、あるべきことか、同僚片岡源五右衛門が金品までも拐帯し、一挙に先だって、早くその姿を匿したとのことに、彼は胸を拊って痛恨し「この歳までも生きながらえて、かかる恥辱に会うことか」と、一間にジッと閉じ籠り、壁にその身を寄せ掛けながら、脇差把って、胸許から後ろの壁まで突き貫き、そのままにして縡切れていた。ああ庄左が陋劣は悪みてもなお憎むべきであるが、一閑の義烈は永く四十六人とその芳を比すべきである。

 今一人は岡林杢之助である。彼は幕府の旗下に小十人頭にて、禄千石を食する松平孫左衛門の弟で、つとに岡林家の養子となり、赤穂において千石を食し、番頭を勤めていた。番頭といえば、一方の軍隊長、戦時には各々一方を承って討って出ずべき職務であるから、その地位は家老につぎ、岡林家の禄高のごときは、むしろ仕置家老の上にあった。そもそも浅野家の軍制として、番頭たる者は同列協議して、進退を倶にし、一個随意の行動を許さぬというにあった。これはいかにも美法であって、戦国の時代には英物が多い。ややもすれば抜駆けの功名に夜討ち朝駆けなどを試みたがる。ために全軍の策応を誤る虞れがあるからである。ただしこれは戦時の遺制で、太平の時代には時に変通を要するのである。いわんや主家興廃の際などにおいてをやだ。ところが杢之助は性質醇良な上に、坊ッチャン育ちで、これらの理義を明らめなかった。同列の腰抜け連はそこに付け込み、彼を制して籠城論に加担させなかったのである。それで彼は近藤源八らと行動を倶にし「自分においては籠城の御評定至極御尤と存ずれど、番頭としては一個随意の去就を許されぬ御家法でおざれば、心底にも任せませぬ」と会釈して、俗論党と倶に退去した。
 既にして一藩は開散したので、杢之助は江戸における実家に帰り来て、兄の許に寄食した。顧うに義徒にあっても、彼を憎むほどでもなかったろうが、肉食の輩倶に議に足らずとして、その後の密謀に加えようとも思わなかったであろう。結局はこれを度外に置いたのである。それで彼は晏然として無意識に暮らしていた。すると今回の一挙は発した。「君父の讐は倶に天を戴かず」と公表して、四十七人敵営を斫り、目ざす上野介が首級を挙げた。看れば大石内蔵助のほかは、皆自分より下格の士、中には五両三人扶持の徒横目列までも交っている。「これは相済まぬ。このままにてはいられぬ」と深くも自家の放漫を悔恨し、十二月二十八日見事自裁して死んだ。当時の噂では親族から逼って詰腹を切らせたとの説もあった。自分はこの死の自裁であると詰腹であるとを問わず、注目すべき一の出来事であると思う。というはかつて政事的責任のピラミード論において論じたごとく、かの快挙の時代までは、君国のためには一命を棄てて報効せねばならぬという責任を、比較的上流の士が負うた。すなわち武士道はなお当時の中流以上の士に存していた。岡林の自殺は最も善くこれを証明する。それで自分は彼の自殺をもって、決して徒死でないと称揚する。
(『元禄快挙録』福本日南著 岩波文庫 より)