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『水自竹辺流出冷、風自花裏過来香』

昼前にGOLDONIに。一ヶ月振りくらいに数十冊の表装をし、書棚のふき掃除をする。店休日なので、本探しの人や、知人などの来客、電話などでの問合せもなく、久しぶりに本の整理が捗った。
今晩はサントリーホールでの小澤征爾指揮の新日本フィルを聴くつもりにしていたが、数日前に予定を変え、旧知の斎藤偕子、佐伯隆幸の両氏が受賞されるAICT(国際演劇評論家協会)賞授賞式と記念シンポジウムのため、三軒茶屋の世田谷パブリックシアター・シアタートラムに行く。賑わいのないロビーで入場料を払い客席内に入ると、そこは舞台面いっぱいに公演中の『化粧』の楽屋。一瞬、こんなところでセレモニーをする訳がないと、呆然とする。四十人足らずの聴衆の前で始まったシンポジウムのテーマは、『60年代と演劇革命』。パネラーは受賞者のお二人に、黒テントの佐藤信氏が加わるという、何とも贅沢なシンポジウム。80分ほどの短かい時間で、議論が発展せずに終わってしまったが、私にとっては幾つか考えるヒントを貰えた貴重な時間になった。この国際演劇評論家協会日本センター、入会にはたとえば年間百本程度は演劇公演を観ていること、などとの参加要件があるのかどうか。日本劇作家協会のように「劇作をしようとしている」人も入ることが出来るほどにブラック・ユーモアたっぷりに、たとえば「演劇批評をしたいと思っている」人にも門戸を広げているのかどうかも知らないが、何を根拠にか自らを演劇評論家だと名乗る全会員八十数名のうち、今日参集していた人は二十人足らずか。賞を授ける団体の大多数の会員が欠席しているというのは、何とも無礼なことだ。新聞社の賞や文化庁の選考委員であることをちらつかし、招待状が届かなければ強要すら憚らず、劇場や製作団体のパンフやチラシに寄稿しては高額な謝礼をせしめ、特定の劇場や製作団体・演出家と懇ろになるなど、批評精神、批評する人間としての謙虚さ、矜持、節操を身に付けない卑しい人々の群れを見なかっただけでも幸いか。二列先に前の座席の背に足を載せて聴いているのだか寝ているのだか判らぬが、無作法な東大教員がいたので、そこまで行って叱責しようと腰をあげ掛けたが、ここで騒ぎが起きれば、斎藤さん、佐伯さん、佐藤さんにも迷惑が掛かると、思いとどまった。途中から客席に入って来た劇場幹部がいたから、彼に注意させようと思って探したら、この男も同様に足を載せていた。表象文化論やアート・マネジメントを専門とするとなるとこういう態度になるのか。アメリカに行くとこんな態度が身に付くのか。そう言えば、数年前、ヤング・ヴィックの旧グローブ座での『テンペスト』を観ていた時、同じ列の四席ほど右の席にいた男が、本番中に同様な仕儀に及んだ。その右隣りにいたイギリス夫妻は、大きな体を窮屈に折りながら姿勢を崩さずに舞台を見つめていた。彼らにこの男はどう映ったか。休憩の時に心を鬼にして制裁を加えようと思ったが、四季の先輩が支配人をしており、彼に迷惑をかけてはと止めたこともある。イギリス人夫妻は、この無作法な男が、日本の文化庁の芸術家在外研修制度でロンドンの演劇学校に10ヶ月通った演劇生徒だと聴いたら、どう思うだろう。礼節を知らない「評論家」たちや、無作法な「足載せ男」たちに対する憤りがさめないままで客席を後にしたが、そんな様をお感じになってか、ロビーで出会った扇田昭彦会長から「なんて奇特な人なのだろう」とのご挨拶を頂戴した。
21時半過ぎにGOLDONIに戻ると、福岡の友人から昨夜に続けてファイル添付のmailが来ている。読売新聞の記事を見ての感想とともに、鈴木大拙について触れた西田幾多郎の文章を送ってくれていた。彼を含む友人たちと一昨年の夏、軽井沢に遊んだ折、いつもお薄目当てに散歩で立ち寄る出光美術館分館に展示されていた鈴木大拙や仙涯の書などを観たことを思い出してか、まさか私からの連想で大拙さんが出てくるとは、いくら自惚れたとしてもない話。
「屡々堪え難き人事に遭遇して、困る困るといっているが、何所か淡々としていつも行雲流水の趣を存している。私は多くの友を持ち、多くの人に交わったが、君の如きは稀である。君は最も豪(えら)そうでなくて、最も豪い人かも知れない。」「君のいう所、行う所、これを肯(うべな)うと否とに関せず、いずれも一種の風格を帯びざるものはない。水自竹辺流出冷、風自花裏過来香とでもいうべきか」。