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保阪正康著『後藤田正晴』に学ぶ

 年末から年始にかけての数日、磯田光一著『戦後史の空間』(1983年、新潮社刊)、保阪正康著『後藤田正晴―異色官僚政治家の軌跡』(1993年、文藝春秋社刊)を再読した。『戦後史の空間』は、3日の『推奨の本』で取り上げたので、今回は『後藤田正晴』について少し触れる。
 
 ―いずれにしてもいまの四十代、五十代の政治家が次代を担っていくわけですが、この世代についてお考えになっていることはありますか。つまり政治家として成熟していく可能性についてですが…。
後藤田 そう、全体的にドライなのかもしれないけれど、もうすこし礼儀というものをわきまえないといけない。たとえば言葉づかいとかね。また、大きな意味で欠けているものがあるように思う。それは何かということになるが、なかなか日本語になりにくいけれども、たとえば、この前もある若手の代議士にいったんだけど、「君はガアガアいっておるけれども進むということだけしか知らない。君は一歩退くということがなさすぎるよ」ということなんだ。自己主張はきちんとするけれど、それがいい面かもしれないが、だけどそれだけではいかんわな。世の中には長幼の序とか、けじめといったものがなければいかん、と思っている。
 ―政治を託すというのには不安な面があるという意味ですか。
後藤田 いやあそういう意味じゃない。私は何も道徳家であれ、といっているのではなく、政治状況の腐敗を正そうとするなら、相応の姿勢が必要だといっているわけでね。実際、有能でバランスのとれた者もいるからね。そういう代議士には期待しているということだ。私の世代だって、上の世代の疲弊を正すために懸命に生きてきたし、日本を復興させることに努力をつづけてきた。それがここにきて、新たな疲弊が生まれている。これを正すために、新しい時代にむけて情熱をもって歴史の中で生きてほしいという願いを私は強くもっているということだね。
 
 後藤田はときに自民党のニューリーダーと称される人物の名をあげ、その長所と短所を指摘した。あるいは他の政党指導者についても好悪の感情を洩らした。そういう指摘をしながら後藤田は、<歴史を託すに値する指導者>をしきりに求めていることが窺えた。(「終章 幻の「後藤田内閣」」より)

 <歴史を託すに値する指導者>としての政治家を見出せない現在の日本の不幸は、何も政治の世界だけの話ではない。芸術であれ、演劇であれだが、その世界への造詣も嗜好もなく、自弁では鑑賞すらしない文教族議員や文部科学省官僚達と懇ろになり、税金ばら撒きの助成金にありつき、文化庁の予算や施策にまで口を出す演劇人の跳梁跋扈は、「成熟しないお子ちゃま」や「長幼の序を弁えない」政治家の出現に比べて些細なことのように映るだろうが、これも「日本の不幸」のひとつである。
 「この国のあり方」に思いを致し行動することが政治家の務めだったはずだが、これは残念ながら四半世紀前の1980年代中頃には終わったようだ。
 来週の初めには、首相の施政方針演説がある。昨秋の臨時国会で行われた「所信表明演説」では、演説終了後に民主党議員が総立ちして拍手するという、ヒトラーユーゲント顔負けの愚劣な演出まで用意した側近たちは、この週末はどんな演出を考え、振付をしているのだろうか。そのことが国民を愚弄することだと気付くことなく。
 演出も振付も無用である。それよりは、保阪氏の言う<歴史を託すに値する指導者>として、「この国のあり方」に思いを致し行動する政治家の軌跡に学ぶことが大切であると思うのだが、「政治状況の腐敗」の当事者たちには馬の耳に念仏だろう。 


 ―中曽根は、日本に戻るやすぐに施政方針演説の草案づくりに没頭した。この草案づくりは組閣時から進めていたが、中曽根と後藤田の間にはその内容をめぐってぎくしゃくした面があった。当時の官邸詰め記者の話では、中曽根は一期二年という期間を想定していたために、三十年余の政治生活の思いをぶちまけるように、戦後政治の見直しを大胆に主張したかったというのだ。根っからの改憲論者である中曽根は、そのことも濃淡の差はあれ、この機会に訴えておきたいと思った節もある。
 後藤田が、そのような中曽根のブレーキになった。
 後藤田は積極的な改憲論者ではなかった。むしろあの占領期を肌身で知っているがゆえに、そして戦後はこの憲法をもとに日本の再興があったと考えているがゆえに、「僕は憲法を評価しているよ。日本の社会は全体としてはよくなっている。(占領軍の押しつけという論もあるが)その点は議論が分かれるところだ。見直せという論もわかるが、それに伴うリアクションの大きさも考えなければならない」というのが持論だった。『後藤田正晴・全人像』によると、後藤田は、「(憲法)九条はこのままでいいと思うのですね」という問いに次のように答えている。「うーん。難しいね。今のような国会答弁だと、自衛隊が認知されたような、されんような、そんな可哀想な状態で、命を捨てる仕事がどこにありますか。将来、国民が変えたらいいといえば、変えればいい」
 後藤田は、憲法改正を政治日程にあげ、国論を二分する争いをひきおこすような事態は好ましくない、と断言している。しかも、少なくとも太平洋戦争にかかわった世代の者が徒らに憲法改正を口にすべきではないというのがその持論である。平成三年のPKO議論の際の後藤田の発言は、一貫して「憲法を守れ、安易に自衛隊を海外に出すな」というものであった。中曽根内閣の初期にはタカ派といわれ、平成三年からはハト派といわれる、その世評の変わりように後藤田は、「君、僕自身は何も変わっとらんのだよ」と苦笑するのである。
 後藤田は、中曽根の説く「戦後政治の見直し」に、改憲を除いては賛成であった。実際、占領政策、五五年体制以来のさまざまな政治的局面を見直すべきときにきていると考えていた。
 中曽根は、後藤田も推敲に加わった施政方針演説で、経済大国になった日本は、いま戦後史の転回点に立っているといった。そして、これまでの制度、仕組、考え方などについてタブーを設けることなく、新しい目で率直な気持で見直していくべきだ、と力説した。その中には、アメリカでのレーガン大統領との友好的な会話をもとにして、日本もアメリカと対等な関係を持つべきだ、という主張も含まれていた。確かに大局的な状況と方針を語る語は幾つもあったが、改憲といったような具体的な政治方針は含まれていなかった。
 後藤田が中曽根にブレーキをかけて、そうした具体的な施政方針を盛りこませなかったのだと、当時首相官邸周辺では語られた。もっとも後藤田自身はこうした推測については一切語ることがなかった。(「第六章 官房長官の闘い」より)