2017年09月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

アーカイブ

« 劇場へ美術館へ≪GOLDONI/2010年1月の鑑賞予定≫ | メイン | 保阪正康著『後藤田正晴』に学ぶ »

推奨の本
≪GOLDONI/2010年1月≫

『戦後史の空間』 磯田光一著
新潮社 1983年

 
 中村光夫氏の戯曲『雲をたがやす男』のなかに、つぎのような一節がある。明治維新によって旧政府(幕府)が消滅してしまう場合、対外的な借款問題がどう処理されるかという栗本鋤雲の危惧感にたいして、子の篤太夫はつぎのように説明するのである。

 ―内乱は国内政治の延長、というよりそのひとつの形にすぎないというのが彼の考えで、だからどっちが勝とうと、あとからできた政府は、さきの政府が、外国に負った責任をひきつぐにきまっている。これは万国公法の定めるところでもある。したがって、内乱が長びいて、日本が破産状態に陥ることを我々は心配しているが、そうでない限り、政府の交替などは意に介さない。要は条件次第ということのようです。どこの国にもレヴォリウションはおこる。しかし国は国として持続して行く。この二つは別のことなのだ、とフロリは微笑しながら、申しました。―
 
 前半部で「内乱は国内政治の延長」というとき、維新の運動も一つの「内乱」にすぎないという認識がはたらいている。しかし後半で「どこの国にもレヴォリュウションはおこる」というとき、このレヴォリュウションは政権の交替だけではなくて、国家理念の変更をも意味しているのである。幕府が政権を持っていた時点にあっては、維新をめざす争乱はたんに「内乱」以上のものではありえない。しかし客観的には内乱による政権奪取をめざした動向も、それを推進した志士たちの主観の問題としては「レヴォリュウション」と意識されていたのである。それが成功して新政府が成立してしまえば、「内乱」史観は「レヴォリュウション」史観に転換せざるをえないであろう。しかし国際政治の舞台のうえでは、政府が国家を代表していさえすれば、その理念がどうあろうと二次的な意味しか持たないのである。
 中村光夫氏が『雲をたがやす男』を書いたとき、明治維新と二重うつしに一九四五年の敗戦を念頭に置いていたかどうかは問わないとしても、すくなくともこの戯曲の右の場面は、国家の内部に二つの史観の成立し得る可能性を示唆していると思われる。(略)

 上山春平氏が『大東亜戦争の遺産』(中央公論社刊)のなかで述べているように、「ポツダム宣言」と戦後憲法の原型を「大西洋憲章」に求めるという見解である。上山氏によると、「大西洋憲章」にみられる「好戦国」とは日独伊の三国を意味するが、戦後の「トルーマン宣言」(一九四七年)にみられる「全体主義」という用語は共産主義国を意味し、ここにおいて国際社会の”悪玉”が入れ替えられ、史観の書きかえがおこなわれているという。このような観点に立つとき、日米安保条約とは「トルーマン宣言」の具体化であり、比喩的にいえばかつて共産主義を敵視した「治安維持法」を、こんどはアメリカが国際社会に適用したものという一面を持つのである。そして二つの史観において、まったく無傷のまま美化されているのは、占領下の教科書の場合と同様にアメリカそのものなのである。
 「人民史観」が共産圏を不当に美化したことについては批判が出つくしているし、私自身も批判者のほうに近い立場にある。しかし占領軍の流布した「アメリカ=正義の国」という神話を相対化するために、かつて治安維持法に迫害され、その国際版ともいうべき安保条約に反発しつづけた左翼歴史学の果した役割も、けっして小さいものではなかったことを私はあえて指摘しておきたいと思う。そして「人民史観」とは異なる方向から、同じ役割を果したのが林房雄の『大東亜戦争肯定論』であったことも、戦後史観の推移の一事実として指摘しておかなければならない。だが両者の史観は、見かけほど対立しているのであろうか。試みに林房雄の肯定する「大東亜共栄圏」と、左翼歴史学者のいう「アジア解放論」とをくらべてみるがいい。両者を「アジア再編成論」という概念でくくってみるならば、その差異はアジアの盟主を日本とするか、共産中国とするかという、いわば同一の楕円の焦点の相違にすぎないことが明らかになろう。そしてわれわれは戦後の歳月を通じて、「大東亜共栄圏」はもとより、アジアのアメリカ化も、アジアの共産化も、けっして期待どおりの結果を生まないことを知ることによって、すでに史観の限界をみてしまっているのである。(略) 

 
 維新の推進者からみて、主観的に「革命」であることも、国際政治からみれば「内乱」にすぎない。このときわれわれは、『流離譚』が「革命」史観を持った多くの人物を登場させながら、最終的にはそれを包む「内乱」史観によって書かれていることに気づくであろう。一世紀にわたる歳月の推移の結果、体制・反体制の両者を含めて、外国からみれば一つの統一体としかみえないと同様の遠近法が、いまや明治維新については得られているのである。
 戦後を含む昭和史について、こういう遠近法がただちに獲得できるかどうか、私には断定できない、だが、近代日本の作家が社会のアウトサイダーの位置にその文学理念を確立し、そのうえ昭和前半の苛酷な政治によって文学が迫害されたことを思うとき、同時代史にたいする作家の遠近法のとり方が、まだ十分には開かれたものに達していない点を、一方的に責めるわけにはいかない。ただ確実にいいうることは、たとえば占領下に吉田茂が耐えていたものをえがくことができるかどうかは、政治上の立場の問題をこえて、日本の散文芸術の背丈にかかわる問題だということである。歴史の谷間にうずもれた無名の人びとの遺恨とともに、政治家の耐えざるをえなかったものをも文学の視野に入れたとき、日本の小説はいっそう成熟した史眼を獲得することになるであろう。そういう大河小説が出現すれば、さまざまな史観が交代し、史観の対立で争いをつづけてきた戦後という時代も、おのずから歴史の一齣として定着されるにいたるであろう。
(7「史観と歴史小説」より)