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推奨の本
≪GOLDONI/2009年9月≫

『三枝博音と鎌倉アカデミア  学問と教育の理想を求めて』
 前川清治著   中公新書  1996年 

  演劇科の科長は村山知義(演出論)、教授陣は戯曲作法の久板栄二郎、新劇運動史の長田秀雄、舞踊・芸能の邦正美、東洋演劇史の辛島驍、俳優術の千田是也らであった。遠藤慎吾は、「演技史」と「演技実習」の二つの講座を担当した。演技史は、ギリシャ時代から現代にかけての俳優技術の変遷をたどろうとする野心的な試みであった。

 「演劇」の基礎を教える 
 遠藤慎吾は、ウィーン国立演劇アカデミーとウィーン大学で、演劇や音楽など舞台表現芸術を学んでいた。帰国したあと「創作座」で演出家として出発し、『劇と評論』の第二次同人として演劇評論の筆もとった。戦前には日大芸術科の非常勤講師でもあったことから、学生たちには「基礎をみっちり教える」ことを方針としていた。しかし、早々に演劇科の学生たちの間では、自主グループによる芝居の稽古が熱を帯びていた。一学期末には菊池寛の『父帰る』の試演会が、開山堂を舞台に行われていた。そこで夏休みを前にして遠藤慎吾は、演劇科の学生たちに呼びかけた。
  <演劇科の学生は、夏休みを無駄にしないため公演準備の稽古をするという話で、遊ばない計画をたてているところはいいと思うが、本の方はどうも余り読まないらしい。日本では俳優にしても演出家にしても、忙しい仕事に追いまくられているせいもあろうが、読書や思索を怠りがちのことが多く、そのためにいつの間にか職人的な気風が強くなってしまう。歌舞伎や新派は無論のこと、新劇でさえもそうなのだから、演劇がいつの間にか芸術と離反していくことになる。どんな流派の芝居でも、一人前の職人の腕を持った人が育ってくる頃には、芸術とだんだん縁遠くなってくるのは情けない。今の新劇にもそういう危険が強い>
 「読書のすすめ」は、鎌倉大学校の教育方針の基本にあった。音楽科でも文学科でも、読書の指針として教授から参考となるべき図書のリストが示されていた。戦後間もない時期でもあり、東西の古典に接するには翻訳本も少なく、図書室といっても教授たちが提供した蔵書であり、図書館も十分に完備されていなかった。演劇科の学生たちへの呼びかけはつづく。
  <本を読むということ、思索をするということが、一つの芸術創造である演劇の仕事と不可分であることを、口がすっぱくなるほど学生たちに言ってきかすのだけど、どうもピンと来ないらしい。ただ、むやみやたらに芝居をしたがる。舞台に立つという単純な、それだけに一番強い魅力に引かれがちである。むろん舞台に立つことは重要だが、これに読書や思索の裏付けがなかったら、何もならない。だから、ぜひ考えてほしい。本を読んで欲しい。三枝さんが『科学するための序説』でいっている意味の「哲学する」ことを、ぜひ身につけて欲しい。それに自分たちが今立っている演劇史上の一点をはっきり知るために、西洋演劇史や日本演劇史をも頭にたたきこんで欲しい。この方面でよい本がないのは実に残念である。日本演劇についてはいろいろの秀れた研究があるが、よい日本演劇史がない。西洋近代演劇史にはJulius Babの「Das Theater der Gegenwart」という名著があるが翻訳がない。北村喜八氏が最近、『西洋演劇史』を出した。カール・マルチウスの『世界演劇史』の翻訳も出ている。いまのところ、こういうものでも読むほかあるまい。それに戯曲史のよいのがないのも実に残念だ。でも戯曲の方では、外国のものの翻訳が随分たくさん、ある程度、系統的に整理されているから、これは片っぱしから読んで欲しい。読むときに、広い意味の「哲学する」という態度を失わなければ、本は不十分でも得るところは大きいのである>
  (「第三章 多彩で個性的な教授たち ―作家・高見順も教壇に立つ」より)