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推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2020年7月》

『人間の経済』 宇沢弘文著 
  新潮社 2017年刊

  水俣病の記憶
 経済学が始まって以来、自然環境を扱うことはタブーとされてきました。もともと自然環境は天から与えられたもので、人間がつくったものではありません。人間は森から木を伐り出し、海や川から魚介を獲り、それによって経済的な生活を営むことができますが、森、川、海など自然の価値は、そこからどれだけ経済的メリットを受けることができるか、という一つの要素に過ぎなかったのです。
(略)かつて水俣の海は、魚が湧き出す、といわれるほどすぐれた漁場でした。風光明媚な自然につつまれ、訪れる人々の心をなぐさめる景勝地でもあった。その素晴らしい自然のなかで人々は漁業という生業に従事し、経済的にもたいへん豊かな、人間的にも文化的にもすぐれた平和な生活を営んでいました。それがチッソという一企業の行為によって、美しい水俣湾は完全に破壊され、わかっているだけで数万人が水俣病に苦しみ、その地で漁業をつづけることさえ困難になった。チッソは長いあいだ、営業の名のもとに水俣湾を自由気ままに汚染する犯罪行為をおこなったのです。
 水俣の公害問題は、自然環境というのは所有権がはっきりしていないのだから、企業がどれだけ利用してもかまわない、という考え方が引きおこしたものです。しかし、水俣湾という自然は、決して自由財あるいは公共財ではありません。有史以来、地元の人々にとって共通の財産として大切にあつかわれ、海を汚すことはきびしく禁止されていた。そこで魚を獲って生計を立てる人たちは、海を神聖なものとして尊崇してきたのです。つまり、社会的共通資本としての水俣湾をチッソは勝手に使い、徹底的に汚染し、破壊しつくした。それによって数多くの人々が脳神経の中枢を冒され、言語に絶する苦しみを味わってきました。
(略)水俣病をはじめとして全国の公害問題にかかわるなかで、私はそれまで専門としてきた近代経済学の理論的枠組みの矛盾、倫理的欠陥をつよく感じざるを得ませんでした。そして数多くの公害の人間的被害の実態を分析していく過程で、その原因を解明し、根源的解決の道をさぐることができるような理論的枠組みとして到達したのが、社会的共通資本という考え方だったのです。
 所有関係には私有のものもあれば、公有もあり、国有もあります。それはマルクス経済学にも近代経済学にも共通していますし、私自身、かつては経済学者の通例として、すべて所有関係でものを考えてきました。しかし、それだけでは森林や海のような自然環境をうまく、持続的に管理していくのは不可能です。日本でも、明治の近代化の過程で急速に壊されてしまった入会制度のように、皆で相談して大切に使い、次の世代に伝えていく、つまりコモンズの精神を取りもどす必要があると思うのです。(「六 天与の自然、人為の経済」より)

  私と農村の思い出
 私は、成田の空港反対同盟の三人から届けられた一通の長い手紙を手にしました。そこには、反対同盟の若い人たちが直面しているさまざまな問題と困難がつづられており、成田問題に対して社会正義にかなった解決策を見いだすために、私に協力してほしいというのでした。
 そして数日後、後藤田正晴さんからもほとんど同じような要請を受けたのです。そのときの後藤田さんの言葉は、強烈なものでした。
「自民党の幹部の中に『成田の問題は国家の威信にかかわる重要な問題だ。軍隊を投入して一気に解決すべきだ』という声が高まっていて、もう防ぎきれない。危機的状況だ」「今までは運輸省から言われるので、立場上、警察を成田に投入してきたが、その結果として数多くの農民を傷つけ、地域の崩壊をもたらしてしまった。警察の威信はまさに地に堕ちた。今後、成田空港の問題を社会正義にかなうかたちで解決すべく真剣な努力をしないままでは、とても立ちいかない」
 私は後藤田さんの有無を言わさぬ迫力に圧倒され、成田に入って成田空港問題の「社会正義にかなった解決の途を探る」という困難な営為に全力を尽くさざるをえなくなってしまったのです。
 それから十年近くのあいだ、研究的営為はもちろん、家庭の生活まで滅茶苦茶になってしまいましたが、反対同盟の若い人たちの高い志を知り、その魅力的な生きざまに触れることができたのは、私の人生にとっては最高の収穫となりました。

  空海の満濃池
 もともと工学は英語でいうとcivil engineering 、日本では土木工学と理解されがちですが、じつはそれより広い意味を含んでいて、社会が一つの社会として機能し、そこに住むすべての人たちが人間らしい生活ができるための工学的なストラクチャーを指しています。耳慣れない言葉だと思いますが、一例として、農業にかかわる潅漑について考えてみます。
 かつての日本農業は生産性の高さでは世界的にすぐれ、少なくとも一九五〇年代から一九六〇年代はそれがあてはまっていました。それを支えてきたのは、長い年月をかけて全国でつくられてきた潅漑システムと、共同体によるすぐれた管理方法でした。
 日本の灌漑システムに大きな影響を与えた空海は、日本の歴史上、最も偉大なcivil engineer(工学者)の一人でした。九世紀はじめ、空海は遣唐使とともに留学僧として中国長安に渡りました。当時の留学僧は単に仏典と仏教を勉強するばかりでなく、二十年間は唐で社会制度や工学的な知識を学んで日本に帰り、国の発展に尽くすことが求められていましたが、空海はわずか二年で日本に戻り、「自分は二年間で学ぶべきものをすべて学びました」といういかにも若い時分の空海らしい詫び状を朝廷に出しています。
 それからしばらくして空海は、朝廷から別当職をもらって故郷の讃岐に帰り、有名な満濃池の大修復の総監督をすることになります。八世紀に造られた満濃池は、日本最大の灌漑用ため池でしたが、あまりに巨大だったので造ってすぐに壊れてしまい、使いものにならなかった。それが大修復工事をはじめた空海のもとには、彼を慕うたくさんの人たちが集まり、わずか三ヶ月で大修復工事を仕上げてしまった。これは日本古代の水利工学的な事業のなかで、一番に特筆される事業として今も語り継がれています。
 空海は、満濃池を造るにあたって唐で学んだ工学的な知識をもとに、当時最新の技術を用いました。それと同時に、池の灌漑用水を利用するに際してすばらしいルールを作った。よく知られているのが線香水で、およそ三千戸もの農家が公平に水利の機会を得られるよう、線香一本が燃え尽きるまでのあいだは一つの田んぼに水を流すことにした。それだけでなく、満濃池を維持していくための修復や整備など、人びとの労力の提供についてもじつに公平なルールを残しています。(「七 人類と農の営み」より)