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推奨の本
≪GOLDONI/2011年11月≫

安藤鶴夫作品集 第6巻
朝日新聞社 1971年

 さて私は映画を除いて、開いている限りの小屋を、文字通り片端から行脚した。
 松竹新劇場(山茶花究一座旗揚公演)では、船場久太郎補綴脚色の「歌う白野弁十郎」を、大都劇場(吉本楽劇座)では、阿木翁助作の「華やかな燭」を、花月劇場(伴淳三郎一座)では、深井俊彦作の「江戸子夢物語」を、大勝館(劇団たんぽぽ)では、小沢不二夫作の「沐浴する仙女」を、常盤座(杉山昌三九、本郷秀雄一座)では、三林一夫作の「東海水滸伝」を、そして松竹演芸場では、中村目玉・玉千代の浪曲漫才を、私は出来る限りの忍耐をもって、そのそれぞれの舞台の或る一節と向い合った。
 そこには詩人剣客の心意気を低能扱いした白野弁十郎、白痴と勘違いをしている山の仙女、任侠を無智と履き違えた森の石松や、ピンク色のカーテンの前で、九段の見世物然と女が椅子に三味線を抱えると、男がぺたりと舞台に座って「泪一つがままならぬ」と絶叫している漫才がいた。
 自分の緊張感を取り戻すために、捨台詞同様のなに気ない台詞を、突如として力んでいったりする重演技、そして最も大切な件をあらぬ方に気を取られて、しかもそれをいっぱし舞台なれしているつもりかなんかでいる軽演技、しかもそのほとんど全部の発声法は全くでたらめであり、満足に台詞が通らず、たまたま聞える俳優の台詞は、全然訓練された舞台の声ではなく、普通人がただいたずらに大声で怒鳴っているのとおなじようである。
 事についでにもう一つ畳み込めば、或る劇場の廊下に貼り出された番組に、堂々、「殺陣」を「殺人」と書いてあった事を秘かに報告したい。知らせたくない誤りだが、その誤りをなに気なくしている心理的なものを―無智を私を恐れるのである。

 浅草演劇に働く人々は、「演劇」そのものよりもこのあやかしに憑かれて、「演劇」を愛していると錯覚した人々ではあるまいか。浅草の演劇は、作者も俳優もまずこの妖気から脱却しない限り、救いのない泥沼である。
 入場料を後日の参考に書くと、劇団たんぽぽの二階五円十銭(内税金三・四〇)を最高に、松竹演芸場の一円九十銭均一(内税金〇九・五)を最低として、ほかはだいたい三円台で、それは平日であったにもかかわらず旧産業戦士級の人々によって、どこもかしこも鈴生りの超満員であった。金竜劇場の楽屋番は、このごろの観客気質を語って、「昔は自分でひいきの役者をみつけたものだが、いまじゃア人が騒いでいれア、すぐそれがひいきになっちまうんでさ 」
 (『浅草六齣』「興行街」より(一九四五年))