2017年08月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

アーカイブ

« 劇場へ美術館へ≪GOLDONI/2010年9月の鑑賞予定≫ | メイン | 劇場へ美術館へ≪GOLDONI/2010年10月の鑑賞予定≫ »

推奨の本
≪GOLDONI/2010年9月≫

『日本に就て』 吉田 健一著 
   筑摩書房 1974年

 日本の知識人或いは文化人と総称される人種が、鼻持ちがならないといふものを通り越して、全くどうにも愚劣で腰抜けの、何の為にそれが本を書いて、またその本を人が読んだりするのか解らない。(略)例へば、野蛮人は風と言へば、実際に風が吹き出すのを恐れるのに近い状態にあるらしくて、そこから特定の言葉を口にすることを禁じる習慣が生じたとも見られるが、日本でものを書きなどする或る種の人間も、言葉といふのはその言葉の意味なのだと勘違ひしてゐるのが多いやうである。
 文明と書けば、そこに文明があると決めてゐるのではないだらうか。(略)さういふ言葉の使ひ方、或は寧ろ言葉に対するさういふ考へ方は、単に書くものを論理が支離滅裂な、又それ故に味も素つ気もないものにするばかりではない。文明と書くだけでそこに文明があることになるならば、それは言葉に対して安心してゐられるといふことであつて、そこにも可哀さうになる程幼い野蛮人の心情に似たものが感じられるが、野蛮人はそれで今度は恐怖とか、信仰とかいふ真剣な気持を起すのと違つて、かういふ知識人はただ言葉に就て安心してゐるだけである。ものを書くのに苦労しないのもその為であり、又、言葉はビルや自動車も同様にそこにどつかりと置かれてゐるから、或は、当人はその積りでゐるから、それを使ふのに考へる必要もない。ただ並べれば、そこにビルも、その間を通る自動車もある一つの風景、ではなくて、それが実在する世界が出来るから、後は言葉の数の問題が残るだけであり、言葉をなるべく多く知つてゐるのが知識人、といふことにもなる。
(「日本語に就て」より)

 戦後に教育が進歩して新しい大学の数が殖え、全部で四百八十だか、六百八十だかになつてゐると聞いたやうに記憶してゐる。四百八十でも大したもので、ソ聯とアメリカの次は日本だといふことになりさうである。ソ聯やアメリカにも、それだけの数の大学はないかも知れない。面積割りにすれば、或は、人口割りにしても、優に世界一である。
 それも、戦後二、三年のうちにこの世界一の地位を獲得したのであつて、それまでは普通の文明国並の数しか大学がなかつたのであるから、かういふ世界一は一応疑つて掛らなければならない。(略)
 つまり、日本の大学の場合はその多くが所謂、昇格なのである。戦後にキリスト教大学とかいふのが出来た時、その基金を作るのに一万田さん以下の一流の財界人が名を連ねて漸く必要な金が集つたが、本当に大学をひとつ新たに設置するのにその位の金が掛るのは当り前である。そしてこれは何も戦後だからさうなのではないので、東京と京都に大学があるやうになつて大分たつてから仙台に東北帝大が設立されたのは、当時の政府が非常な苦心をした末だつた。
 ここの所の心理が、だから、よく解らない。大学を一つ作るには大変な金が掛ることで、高等商業や女子医専を大学に昇格させて間に合しても、昇格させるのにはやはりそれだけの金を使ふことになる。丁度、昭和二十五、六年頃に関係があつたさういふ、それまでは大学ではなかつた学校で、どうしても大学になりたいのが、それには図書が三万冊なければならないとかいふので大騒ぎをしたことがあつた。合格したら返すから、蔵書を貸してほしいといふ話まであつたが、結局は大部分を新たに買つたやうである。方々でさういふことが起つてゐて、神田の古本屋は大儲けをしたらしい。つまり、図書を揃へるだけでも大変だつたのであつて、それならば何故、焼け跡が特色で碌に着るものもなかつたあの時代に、さうしてまで間に合はせの大学を殖やさなければならなかつたのか、今から考へて見ると不思議である。
 それで、何百かの大学が日本に出来た。その当時も、新築されるのは官庁や料理屋ばかりで住宅問題などは後回しになつてゐるといふ非難があつて、それは今日よりももつと深刻なものだつた筈であるが、大学を新たに作る為の浪費に就ては誰も文句を言はなかつた。確かに浪費だつたのであり、それは出来上がつた大学の、現在の内容が我々に教へてくれることである。大学の数が殖るのが文化だと思つてゐたのだらうか。
 (略)大学教育を受けるといふことにもし何か意味があるならば、それは実際に大学と呼べるものがあつて、そこに入つて勉強をしての話である。ただ大学教育が受けたかつたり、それを施してゐると自称したかつたりする人間がゐて、これを手つ取り早く満足させる為にさういふ人間が集つてゐる場所に大学の名称を与へたものが、大学である筈はない。かういふ新しい大学のことを思ふと、よく日本の舗装道路のことが頭に浮ぶ。泥道だつた所が舗装されることになつたといふので喜んでゐると、先づその上に石を砕いたのを敷いて、その上をローラーが何度か行つたり来たりし、それから何か黒いものが塗られて、それで舗装道路が出来たのである。だから、少し放つて置けば、直ぐ又もとの泥道に戻る。舗装道路といふのは、そんなものではない。それでも、ないよりかいいと言ふものがあるかも知れないが、それは道路といふものが物質だからで、精神、或は知性の問題に就てもさういふごまかしが利くと思ふのが、新制大学の精神である。
(「女子大学の問題」より)