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推奨の本
≪GOLDONI/2008年12月≫

『元禄快挙録』(上・中・下) 福本日南著
 岩波文庫  1940年

 およそ酷烈俊厳なのは当時の制法である。その父罪を犯せば、その子もまた免かれるを得ない。したがって幕廷は一党に尋常ならぬ同情を寄せたにも関わらず、これに切腹を申し付けた以上は、その子を不問に付する訳には行かぬ。それでかねて徴しおいた親族書に拠り、一党の処分と同日に、その遺子十九人に欠席裁判を宣告された。その申渡しは実に左の通りである。
 父ども儀、主人の仇を報じ候と申し立て、四十六人徒党致し、吉良上野介宅へ押し込み、飛道具など持参、上野介を討ち候始末、公儀を恐れざる段不届に付き、切腹申し付け候。これによって伜ども遠島申し付くる者也。
                                    (「二九七 一党遺子の処分」より)
 
 ここに愍れむべきは、吉田伝内、間瀬定八、中村忠三郎、村松政右衛門の四人である。これらはいずれも母への奉養を命ぜられ、父兄に引き離れて、後に留まった者である。しかるにその年齢十五歳以上というので、四人倶に一旦江戸に呼び出され、ここに置かれること三か月にして、この歳四月二十七日伊豆の御代官小笠原彦太夫に引き渡され、伊豆の大島へと送られた。
 当時の法制として遠島に配流せられる者は金ならば二十両、米ならば二十俵以上を配処に持参することの出来ぬ掟であった。それで吉田伝内及び間瀬定八が寓した姫路の城主本多中務大輔、並びに中村忠三郎がいた白川の城主松平大和守は、いずれも深くその境遇を不愍がられ、銘々へ金十九両と白米十九表宛を支給された。独り村松政右衛門が仕えた旗下小笠原長門守は小身であったから、僅かに金四両を給与された。
 それで多いというではないが、前の三人はとにかく当分の支度はあれど、後の一人は最もそれが手薄いのである。さすがに義徒の子は子である。既に船に乗り込んでから、三人は辞を揃え、
 「我々は御領主からの御恵みで、当分事は欠きませぬが、政右衛門殿には御支度御不足の御容子、さぞお心細く思し召そう。なれどもお互の父兄既に一処に死に、今またお互一処に流人となれば、何時召し還さりょう当もなく、同じ辺土に朽ちる身にござれば、衣類金穀に自他の別を立つべきでもござりませぬ。一様に分けて、食いもし、使いもいたしましょう。決して御憂慮なされるな」
と慰めた。政右衛門はこれを深謝し、
 「御芳志のほど千万忝のうござりまするが、結句は用意の手薄いのが優しかも知れませぬ。今日の境遇では、ただ飢えるか凍えるかして、死を待つよりほかはござらぬ」
と冷やかに一笑した。
 日頃は貪欲な船頭・水手、流人の財貨と見る時は、多くはこれを奪い取り、配所に達する頃までには、幾何も残さぬが常であるが、天下何人か良心なからんだ、彼らはこれを聞いて、感涙を催し、人をも物をも大切に保護して、やがて大島まで送り著けた。
 一党忠節の噂は早く沖の孤島にまで伝わっていたので「それ義士のお子さんが送られて来るそうな。お互に目を掛けてやれ」と粗雑ではあれど、小屋ををしつらい、四人の来着を歓迎した。
 されど永の年月であれば、当初の蓄え何処までも続くべきに非ず、四人は蓆を打ち、篷を編んで、その生計を助けていたが、江戸を発してから全二か年、宝永二年の四月二十七日、間瀬定八は生年二十二歳を一期としてこの地に痩死し、永く不還の客となった。かかる不幸中にもまた世に往々有心の人を欠がず、江戸の商人戸屋三右衛門は、かつて政右衛門と旧誼があったので、配所の辛苦を想い遣り、遥かに金三両を贈って、その薪水の費を助けた。それで残る三人は宝永六年まで都合七年間、とかくして鹹風蜑雨と闘い来た。
                                      (「二九九 同 四人の配流」より)