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推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2020年7月》

『観劇偶評』 三木竹二著 渡辺保編
     岩波文庫 2004年刊

 明治二十五年二月 深野座(新富座)
  「櫓太鼓成田仇討」「伊勢三郎」「吉例曾我礎」(対面)
 寿美蔵、芝翫、小団次、新蔵、女寅、福助、団十郎、猿之助、家橘、染五郎

  音羽屋丈の多助どん歌舞伎座にて古今の大当りをなしたる後、高島屋丈につづきて浪花に往き、成田屋丈のみ踏住まりて、同座の三月狂言に出勤の噂とりどりなるところ、俄に深野座開場と聞えしには驚かぬものなかりき。こはけだしこの座改称以来とかく景気引き立たず、茶屋出方一同困難を極めし折から、今春の興行を頼まんとせし高島屋丈坂地へ乗込と定りしかばますます驚き、遂にこの事情を述べて成田屋丈に出勤を乞ひたるなり。同丈もとより義侠の人なれば快く引受、無報酬にて出勤すべしといひしかば、芝翫丈、福助丈も義に勇み、同じく無報酬にて出勤することを諾し、この開場に運びしはかへすがへすも感賞すべき美挙にこそ。 (略)この「伊勢三郎」は黙阿弥が屈指の名作と噂の高きものにて、去明治十九年十二月やはりこの新富座にて興行せしが、書き卸しにて大当なりき。(略)
 すべて能曲を歌舞伎に写したる演じ方にて、幕明を掃舞台にし、板付の仕出もなく、義太夫を地謡と見せ、のっけに出る義経をわき師、義経の妻浜荻をつれと見せ、ここに出る老党左六太は狂言師の格、これより坐定まりて花道より出る伊勢三郎をしてと見する順序なり。その外白万端高尚にて、すべて華やかに演じ終りたるは目新しかりきといへり。いかにもこの作の品格高きは能を模せしためなるべけれど、見終りて淡泊過ぎ、少しく喰い足ぬ心地するも、また能を模せしために外ならず。
 原来能を演劇に模するは好処三つありと我らは思ふ。第一能の形を模するなり。その故は能にはわき、つれ、して、狂言師など、それぞれの順序正しく、その役々の並び方まことに整へり。演劇は眼にて見るものなれば、浄瑠璃作者が早く人形の並べ方に苦心する如く、俳優が舞台に並ぶ風情、よく整はではかなわず。いはゆる引張の見えなどいふはここの事なり。されば「勧進帳」にて弁慶が往来の巻物を取りて読むを、富樫が伺ふ辺など言ふべからぬ味あり。第二は能の振を模するなり。例之ば、「橋弁慶」の立の如き、「土蜘」にて蜘の糸を出す如し。第三は舞台の道具立の淡泊なるところを学ぶことなり。我らももとよりわが邦演劇の舞台を能舞台と一様に味なきものにせよといふにはあらず。しかれども欧洲、殊に仏蘭西などの大演劇場にてあまり大道具にこるため、観客はその景色よきに目移りしてじやじやとの喝采はあれど、その代り芸の方は次第に二の町になるは識者の卑むところと聞く。わが邦にても近頃随分道具に凝る癖起りて、実地実地と模するやう勧むる人もあれど、労して功なきこともまた少からず。例之ば、菊五郎丈が「梵字の彫物」にて使ひし日光陽明門の道具に数千円を費ししが、それほどの評判もなかりき。中には左団次丈が「血達磨」の火事など大当りなりしが、これらは芸道の上にてはあまり誇るべきことにあらず。もとより両丈などは道具建の当りを頼みて芸道を揺るがせにするやうなる人にはあらねど、後進の人々がかかるまねをすることなど流行りては斯道のために憂ふべし。
 また能より演劇に模して悪しきこと一つあり。そは正本の脚色を能より取ることなり。その故は能の筋立はもと淡泊なるものなれば、その好処は優美にして品格を備へ、おもに叙情的もしくは叙事的なるところにあるべし。正本の筋立はこれと異なり、ここにてはまことに戯曲的ならんこと必要なり、その筋の上の葛藤も分明ならざるベからず。「鉢の木」、「勧進帳」はなほ可なり。しかれども「釣狐」、「土蜘」の如きは純粋の能とほとほと差別をつけがたし。予らは成田屋丈、音羽屋丈などが斯様なる無味淡泊なるものを採りて、新歌舞伎十八番、演劇十種の中に数へ、幡隋長兵衛、明石の島蔵などを後回しにするを怪む。かの「橋弁慶」、「茨木」の所作事の範囲を脱せざるもまたこの類なり。