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推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2019年7月》

矢野誠一著『小幡欣治の歳月』
早川書房 2014年刊

名実ともにリーダーだった宇野重吉が没してより五年たっていたこの時期の劇団民藝が、組織としてまだ混乱から立ち直ってなかったのは確かだった。
かねてより劇団一代論を唱えていた宇野重吉は、ホームコースの豊岡国際カントリーでゴルを楽しんだあとの民宿での酒盛りで、小幡欣治や清水邦夫などを相手に、
「もし修(瀧澤)ちゃんが死んだら、俺はただちに劇団を解散する」
と口にしたのを二度ならずきいている。私には洒落や冗談でなく、本音に思えた。結果は瀧澤修に一二年も先立って世を去ってしまうのだが、在世中民藝の劇団員に対して、「自分の頭でものを考えること」を、口を酸っぱくして説きつづけた。それでいながら劇団民藝に関する諸事万端、すべてと言ったらすべて、劇団員が頭で考えたことを無視した、宇野重吉による独断専行で決められた。だから宇野重吉という指導者を失ってからの民藝は、簡単なことひとつ決めるにもひどく時間を要するようになる。(略)

菊田一夫亡きあとの商業演劇作家のトップとして君臨していた小幡欣治が、戯曲『熊楠の家』の筆を執ったのは、劇作家としてのおのが原点である新劇への回帰の念からであったのは間違いない。人気役者のキャラクターにあわせた、多数の観客を動員できる台本づくりという、強いられた大きな制約を絶えず克服しながらきわめて良質な作品を生みつづけてきた実績を、そうした制約とは無縁の、しかも自分の出発の地である新劇の世界で発揮したいという、これはもう衝動と言ってもいい思いから南方熊楠なる類いまれな傑物にのめりこんでいったのだ。たまたまその新劇にあっても大劇団とよばれる民藝からはなしのあったことに、大きな喜びを感じたことも想像に難くない。こうして完成した傑作戯曲が、劇団という組織のかかえた事情によって、二年間も上演されずに棚上げされたことが、劇作家の自尊心をいたく傷つけるところとなる。依頼された一流作家の作品が、初日に間にあわないようなことがあっても、完成した台本が二年間上演されずにおかれるなど、商業演劇にあっては考えられない事態だった。しかも上演が決定し稽古にはいった段階で、かつて小幡欣治が若き血をたぎらせた時代の新劇にあっては考えられない、また自分の日常の支えともなっていた商業演劇でも、有り得べからざるような事態が頻発するなど、予想外の展開に翻弄されたまま幕をあけることになる。当初思い描いたものとはかなり距離
のある結果に、手放しで喜ぶわけにはいかなかった。
そんな劇団民藝の上演からわずか一年後、東宝現代劇七十五人の会によって自主上演され『熊楠の家』は、民藝公演に託しながら果すことのできなかった小幡欣治の無念を、見事払拭する結果となった。出自である新劇回帰の思いが書かせた『熊楠の家』を、その新劇を代表する大劇団民藝が作者の志に応えかね、商業演劇の傍役集団によって叶えられたというのは、大いなる皮肉だ。だが、東宝現代劇七十五人の会の前身である菊田一夫の創設した東宝現代劇に参集した一、二期生のほとんどが、いったんは新劇を目指し、劇団に籍を置いた経験を持っていた。と言うことは、小幡欣治がかつて身を置いた時代の新劇青年の志は、傍役という立場で商業演劇を支えてきたヴェテラン役者の胸のうちで生きつづけてきたのだ。新劇はもはや死語だという声のある一方で、商業演劇との交流も盛んになり、ジャンルの壁の取り払われたと言われる昨今の演劇事情下にあって、代表的な新劇団が組織であるがための変質を余儀なくされ、商業演劇一筋の傍役集団に失われてしまったはずの新劇固有の魂が維持されていたとは、正直小幡欣治も気づかなかったかもしれない。小幡欣治も東宝現代劇七十五人の会も、ともに四十年になろうという歳月を、商業演劇という名の「新劇」に心を砕いてきたことになる。
小幡欣治作品『熊楠の家』は、現代演劇にあって新劇・商業演劇といった区分けになんの意味もないことを実証する作品となった。それでいながら『熊楠の家』以後、ホームグラウンドであった商業演劇のために一本の作品も書くことなく、残された生涯を劇団民藝のために八本の戯曲を提供することに費やした。新劇への見果てぬ夢がそうさせたようにも受け取れるが、実はそうではない。新劇と商業演劇のあいだに横たわっていた壁が取り払われたことによって、新たに生じた現代演劇事情がそうした結果をもたらしたにすぎない。(「f 」より)