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推奨の本
≪GOLDONI/2009年6月≫

『随筆集ピモダン館』 齋藤 磯雄著
  廣濟堂出版  1970年 

 
  レーナルド・アーンといへばヴェルレーヌの「秋の唄」や「まろしき月」や「大空は屋根の彼方に」などの作曲家としてわが國でもかなり有名である。マルセル・プルーストの愛讀者ならば、この偉大な小説家とこの作曲家とがどれほど親しい間柄であつたかも知つてゐよう。アーンは深く文藝の嗜みのある作曲家であり、指揮者であり、また聲樂家でもある。彼はさる大學で『歌について』といふ連續講演を試みたことがあるが、その何回目かに、「歌の衰頽の諸原因」に關する考察を述べるに際して、先づ次のやうな逸話を語つた。
 
 主人が味ききで有名なさる料亭で、金持の紳士たちが極上の古いブランディーを註文した。穴倉から貴重な酒が運ばれて來ると彼等は、自分たちの事業のことをがやがやおしやべりしながら、ぐいぐいと飮み始めた。
 ――皆さんはとんでもないことをなさる(と主人は言つた)このブランディーはそんなふうにしてお飮みになるものではございません。
 ――ぢや、どうして飮んだらいいんだい(と客たち)
 ――先づかういふふうにして(と主人はいとも樂しげに杯を手にとり)掌で杯をゆつくりと、ゆつくりと、温めます。この杯に自分の體温を、血のあたたかさを通はせるのでございますね。それから(と恭しく酒瓶を手にとり)かうして瓶をよく振ります。そして杯がさめないうちにかういふふうに(と耳をかしげながら)酒を注ぎます。それからくゆり香を吸ひ込み、ほんのすこし舌に流し、目をつぶって、ゆつくりとこれを味はひます。……さてそれから……
 ――それから?(と一同はごくりと咽喉を鳴らしながら訊ねた。)
 ――それから……(と主人は答へた)心にそれを思ひ浮べて、語り合ふのですよ。
 
 レーナンド・アーンは、「歌」もまた、このやうにして聽かなければならぬ、然るに人々はこの忙がしい實業家たちと同じやうに、「歌」の何たるかも知らず、上の空でガブ飮みしてゐるとが慨嘆するのである。繪を眺めるには光線が必要だ、それと同じやうに、歌を聽くには靜けさと、閑が必要だ。ところが今の世には靜けさがない、閑がない。「歌」はおしまひだ、藝術はおしまひだ、と嘆くのである。……彼は次々に歌手を責め、批評家を責め、聽衆を責める。
 第一に歌手。――「これこれの歌曲を歌ふにはしかじかのことを思ひ出す必要があります。ところで或ることを思ひ出すには、先づ第一にそのことを知つてゐなければなりません。然るに近頃の大多數の歌手たちは、てんで何一つしらないのであります。」
 まことに痛烈だ。いろいろと思ひあたる。しかしもう少し聽かう。――「高い變ロ音が歌へるとか、若干の低い音符をわけなく出せるとかいふことでもはや學ぶところがないと思つてゐる連中が實に多い。藝術から言はせれば片腹痛い次第であります。美しい肉體、いくつかの響高い音符、二十人ばかりの褒め仲間、これだけあれば今日、何一つ知らぬ歌手が、何一つ知らぬ公衆の前に出て喝采を博するに充分です。味ききが劇場の三分の二を占めてゐた昔は、斷じてこんなことがありませんした。」――(御尤も。しかしアーン氏よ、贅澤を言ひ給ふな。お國にはマリブランやガラやエルヴィウ亡きあともなほ、大歌手パンゼラをはじめ、パトリ、クロワザがゐるではないか。)
 第二に批評家。――「しかし罪はかうした歌手たちの獨りよがりよりも、むしろ或る種の批評家たちの恥知らずにあります。」
 さあ批評家よ、お偉方よ、諸君にお鉢が廻つて來た。ふん、と薄笑ひを浮べて顎を突出すがよい。――「彼等は多くの場合、聲樂といふ商品の宣傳係にすぎない。新聞や雑誌に現れる彼等の讃辭や罵倒は、あらかじめ決つてゐるのです。何故かと申せば彼等の利害、彼等の損得が、前以て決つてゐるからであります。彼等にあつて審美上の關心の如きは、かういふ商取引を効果あらしめるための、ほんのみせかけにすぎません。試みに彼等に、メロディーはハーモニーがそこから生れそこに合體したところの詩についてしてみるがよい。詩人とその作曲家の基本的な關心の對象であつたシラブ(音綴)やリーム(脚韻)やセジュール(句切)について訊ねてみるがよい、――彼等は殆ど常に何も御存じないのであります。」――(これも何やら思ひあたるふしがないでもない。しかしアーン氏よ、わが國では、知つたかぶりの演技にかけては、お國の批評家に優るとも劣らないからなあ。なにしろ商賣人は全能力をそこにかけてゐる。……)
 第三に聽衆。――さあいよいよわれわれの番だ。……――「歌は現れると同時に消えてしまふ一つの神秘であります。もし人々がその魔術に、細心な熱情的な注意を凝らさなければ、最大の美がそこから失はれてしまうでせう。…………然るにこの内面的な専心が今日の音樂會には見出されません。何故か。今日の青年はいかに優秀であらうとも、音樂、わけても歌とはまるで縁のないあまりにも多くの事がらに心を奪はれてゐるからであります。彼等はもはや音樂を愛さず、歌に注意しません。注意しないから何も知らず、知らないから無頓着な耳をちよいと歌に貸しあたへ、簡單に満足したり嫌つたりするのであります。それで歌は色褪せてゆき、滅んでゆくのです。彼等は歌以外のあまりに多くのものを愛してゐます。現代は機械とスポーツの時代です。彼等は自動車やカメラについては精細な鑑識家であり、拳闘やラグビーについて彼等の知識の浅薄さを咎めることは困難です。しかし彼等をオペラ座やコンセール・ラムールーに連れて行つてごらんなさい。昔の青年ならば肩をそびやかすに違ひないやうな聲樂のお粗末な商品を、巨匠か第一人者とか、でたらめに貼りつけられたレッテルを見て嘻々として買取るのです。買手がある以上、なんで商人が提供することをためらひませうや。不幸の大部分は實にここから來てゐるのであります。」――(恐れ入りました。恥ぢ入ります。……)
 われらの舌は、ガブ飮み用のビールや、ヤケ酒にピタリの焼酎や、アルコールをぶち込んだ超一流早づくりの特級酒などで荒れすさんでゐるやうだ。ほんもののフィーヌ・シャンパーニュ――最良の年、最良の丘に實つた、最良の葡萄から作られた美酒の、そのまた芳醇なエッセンスの如きは、悲しいかな、殆ど口にする機會がない。しかし、もしさういふ機會に惠まれたならば、われわれはあの忙がしい實業家たちのやうな情けない振舞はすまい。两手で丹念にあたためた杯の中に、靜かに注ぎ、匂をかぎ、敬虔な注意をこめて、そつとそれを舌に流し込むであらう。
 近く東京交響樂團は、よき歌手を得て、ボードレール作詩、デュパルク作曲の『旅へのいざなひ』をはじめ、幾つかのフランス歌曲を演奏するといふ。さあ、機會が訪れた。これこそ、フランスの最良の年の最良の丘に實つた最良の葡萄から作られた最良の美酒のエッセンスだ。
……レーナルド・アーンに叱られないやうに、私は私の杯を、諸君は諸君の杯を、おのがじし、前以て、充分にあたためなければなるまい。
(「美酒・フランス歌曲」  昭和三十年 東京交響樂團「シンフォニー」第三號)