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推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2020年7月》

『あの過ぎ去った日々』 木下順二著
     講談社 1992年刊

 結局私個人の問題意識に引きつけた一文になってしまいそうな気がしつつ書き始めるのだが、前回、“そのころ演劇人の中にも、‘専門を超える連帯’が、つまり日本演劇史で初めての古典劇役者と新劇人の交流の萌芽的形態が生まれかけた”といったそのことを、演劇における“戦後”の中の一つのエピソードとして書きとめておきたいと思うのである。戦後の演劇界または新劇界全般を論じる興味は今の私に全くない。ただそのことで一つだけいっておけば、戦後、新劇界は急速に劇団制度を解体して行くものと私は予測していたが、そうならなかった。なぜそんな予測をしたかというと、『子午線の祀り』の後記の一つに、私はこういうことを書いている。「日本では、どうして俳優に合わせて戯曲を選ぶのですか。どうして戯曲に合わせて俳優を選ばないのですか。という質問を、戦前の学生時代に一人の外国人から受けて、意味がはっきり分らなかったことを、非常にはっきり覚えている。一九三〇年代の後半あたりから劇団制度が解体しつつあったヨーロッパ(かアメリカ)の人間が、劇団制度だけで固まっていた日本の人間へ発した素朴な質問でそれはあったのだということが、戦後になって理解された。そして考えてみると、それと同じ意味の質問を、戦前戦後何度か私は外国人から受けている。」
 “戦後になって”分ったと自分で書いているように、あの予測も戦時中からの先見の明などというものではなかったわけだが、とにかく劇団制度はもっとゆるむと思っていたのが、戦争ちゅう情報局によって強制的に“移動劇団”という小集団に解体されていた新劇界は、戦後たちまち戦前の劇団地図を復元するように、劇団システムで固まってしまった。(略)
 さて、日本の演劇が(中国や東南アジアのそれにも似たところがあるが)、ヨーロッパ演劇と最も異なる一つの点は、向うは紀元前五、四世紀のギリシアの昔から今日までを一貫する一つのドラマしかないのに対して、こっちでは諸演劇が併存しているということだ。十四、五世紀に始まった能、狂言という演劇、十七世紀に始まった歌舞伎という演劇、十九世紀に歌舞伎から派生した新派という演劇、同じ十九世紀にヨーロッパ近代劇の移入という形で始まった新劇という演劇などなど、これら別々の演劇が併存している。しかも戦前までは、これら諸演劇の間に交流というものは殆んど全くなかった。(略)
 意味は少々違うが、雑談のつもりで話を江戸時代に持って行くと、歌舞伎の『勧進帳』というのは七代目団十郎(一七九一-一八五九)が能の『安宅』の様式を取り入れてまとめ上げたものとされているが、当時武家の式楽であった能を河原乞食が教わるなどということは許されなかった。そこで七代目は庭師に化けて観世の家にはいりこみ、能舞台の床下にもぐって、演じられている『安宅』を耳から覚えた。または七代目に同情した観世の家元が、要点を書いた紙を、うっかり落した体にして七代目に教えた。などという伝説が生れている。
 近代になってそういうタブーはなくなったけれど、とにかく戦前までは、新劇俳優と能、狂言、歌舞伎の人たちとの交渉交流は、特殊な例外を除けば全くなかったのだが、その交流が、あの敗戦時のあるとき、一瞬間だけ実現され、そのことから、その時にではなくずっと後年、私は大変恩恵を蒙ったと思っている。
 その瞬間が実現されたのは、ひとえに大倉喜七郎氏のお蔭であった。演劇における“戦後”の中の一つのエピソード、と最初にいったのはそのことであって、それをしも大倉さんの思いつきとただいってしまえばそれまでだが、そういう思いつきを大倉さんにさせたのは、やはりあの“戦後”、前にいった文化における“専門を超える連帯”という発想を生んだあの“戦後”という時代であったと私は思う。(略)
 『子午線の祀り』は来年一九九二年一ー二月に銀座セゾン劇場で第五次公演を持つが、一九七九年の第一次以来、参加俳優は新劇のほかに、能、狂言、歌舞伎その他の人々である。七八年「文芸」に発表した時の後記に私は、この劇の「荷を〈山本安英の会〉におろすこととする」と書いてその通りにやって来たが、それはこういう“一つのドラマ”は、例えば会員は山本安英一人だけというこういう会に、多くのジャンルの人々に集ってもらってやらなければやれないからである。劇団制による一新劇団ではーーというところで話は辛うじてこの稿の初めのところとつながるがーー上演は困難だからである。  (Ⅲ ある“戦後”(2) より)