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推奨の本
≪GOLDONI/2010年5月≫

『明日を支配するもの』P.F.ドラッカー著 上田 惇生訳
 ダイヤモンド社  1999年

 (略)日本の官僚は、絶頂期にあった一九七〇年当時さえ、経済的な影響力はヨーロッパの官僚に遠く及ばなかった。フランスやドイツでは、政府自らが経済活動の相当部分を所有する。ヨーロッパ最大の自動車メーカー、フォルクスワーゲンの株式の五分の一はザクセン州が保有し、完全な拒否権をもつ。ごく最近まで、フランス政府は主な銀行と保険会社のほとんどを所有していた。ヨーロッパ大陸第三の経済大国イタリアも同様である。
 ところが日本では、政府が所有する大きな経済活動は郵便貯金だけである。日本では行政指導や影響力の行使によって行なっていることを、ヨーロッパでは、経済の計画化と企業の所有、経営者としての意思決定権によって行なっている。
 
 はたして日本の官僚の力を弱めることはできるか。これまでの彼らの実績は、さほど優れたものではない。この二五年間、失敗ばかりしてきた。六〇年代から七〇年代にかけては、補助すべき対象を誤り、メインフレーム・コンピュータに力を入れた。その結果、今日日本は、情報産業だけでなく、ハイテク全般で大きく遅れをとっている。
 日本の官僚は、八〇年代にも失敗した。景気後退に脅えてバブルを招き、今日の金融危機をもたらした。銀行、保険、メーカーによる株と土地への過剰投資を招き、価格高騰を引き起こした。その結果、最悪ともいうべき不良債権を発生させた。
 九〇年代の初めにこのバブルがはじけたとき、官僚は経済を立ち直らせることができなかった。そこで株価と地価を引き上げ、消費と投資を刺激するために、ニューディール時代のアメリカさえ上回る資金を注ぎ込んだが、効果はなかった。しかも一九九七年には、アジアの金融危機に不意を打たれ、アジアへの投資を奨励することぐらいしかできなかった。
 そのうえ、権威ある大蔵省や日銀の不祥事が明るみに出た。彼らのリーダーシップに疑問が投げかけられ、官僚システムを支持しつづけてきた大企業さえ批判的となった。大企業を代表する経団連は、規制緩和と官僚の権限の縮減を求めている。 
 だがこれまでのところ、大きなことは起こっていない。ある有力な高級官僚を棚上げしようとした政治家のささやかな動きさえ、わずか数週間後にはうやむやにされている。たしかにアメリカの目には、日本では異常なこと、特殊日本的なことがまかり通っているように見える。
 しかし日本のような、家柄や富ではなく、能力に基礎をおく指導層というものには、恐るべきしぶとさがあるものである。信用をなくし、敬意を失った後も、長い間力をもち続ける。(略)

 自らの力を奪おうとするあらゆる試みを挫折させてしまうという、時の指導層の恐るべき力は、日本だけのものではない。そもそも、先進国とくに民主主義の先進国というものは、指導層を不可欠とする。何らかの指導層が存在しないことには、社会と政治が混乱に陥る。その結果、民主主義が危うくされる。
 そのような観念とらわれていない国は、アメリカと若干の英語圏の国だけである。アメリカは、一九世紀の初め以降、指導層なるものをもったことがない。まさにアメリカ社会の特質は、トクヴィルをはじめとするアメリカ研究者が指摘したように、あらゆる層が、正当に評価されず、十分な敬意を払われていないと感じているところに、その強みがあることにある。
 だが、そのようなアメリカは例外であって、日本が普通である。アメリカ以外の先進国では、指導層が存在しなければ、政治の安定も、社会の秩序もあり得ないことが常識となっている。(略)

 先進国社会に不可欠の指導層は、自らの地位に執着する。支配者というものはそういうものである。しかしそれが可能となるのは、彼らに代わるべきものが存在しない限りにおいてである。ドゴールやアデナウアーのような者が現れて、新たな指導層を構築しないかぎり、旧来の指導層は、たとえ信頼を失い、機能できなくなっても、そのまま残る。
 日本には、この変わるべきものがない。将軍政治の後継だった軍部が、日本の指導層として返り咲くことはありえない。たしかに経済界は、かつてない影響力をもつにいたった。だが、社会そのものの指導層となることはできそうにない。学者も自由業も無理である。今のところ、いかに信頼を失墜させようとも、指導層たりうるのは官僚だけである。
(「付章 日本の官僚制を理解するならば」より)