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推奨の本≪GOLDONI 2015年5月≫ 

   
★ 『物語批判序説』/中央公論社刊
蓮實重彦 著/1985年
     

―たとえばシャルル・ボードレールは、その『現代生活の画家』をこんなふうに書き出している。

世間には、いや芸術家の世界にさえ、ルーブルの美術館へ行きながら、第二級のものではあるがたいそう興味のあるたくさんの絵の前は、ちらと眺めることすらせず、さっと通りすぎ、ティツィアーノやラファエロの、版画のおかげで最も人口に膾炙した絵の前に、夢見心地で立ちどまっている人々がある。それで満足して外へ出がけに一人ならずの者が、「私も美術通になった」と独語する。

この夢見心地の鑑賞者たちの快感が、複製手段によって既に知らされていたものと、いま目にしつつある美術作品との類似によって保証されるものであることはいうまでもない。ここでの美術評論家ボードレールの関心は、名高い大作家にしか興味を示そうとしない公衆と、無名の小詩人たちの擁護者との関係、つまり普遍的な美と特殊な美との対立といった視点から現代の風俗画家を論じることにあり、模写や複製といった現象がそのまま主題となっているわけではない。だが、われわれにとってのさしあたっての関心事は、ほどなく写真が演ずるであろう機能を、すでに版画が演じているという点にある。人は、明らかに類似の確認を求めて美術館に足を運び、物語の正しさに安心して「芸術」をおのれのものにする。「模写」の正確さが、いま、「芸術」の物語を模倣しつつある自分を正当化してくれるのだ。
 もちろん、こうした現象は、こんにち、より大がかりなものとしてわれわれのまわりに起りつつあり、何ら珍しいことがらではない。だが、そのことの是非を問うことが問題なのではない。「私も美術通になった」と独語しうる匿名の群の量的な増大が「芸術」を堕落させたといって顔をしかめてみても始まらないからである。ただ、こうした現象があくまで歴史的なものであり、その歴史性を無視した「芸術」信仰はもっぱら抽象的な言説しか生み落しえないだろう。そのときいらい、「芸術」は、「芸術家」という特権的な才能の排他的な身振りが煽りたてる流行語であることをやめ、誰もが語りうる共通な話題となったのである。あるいは、「芸術」は問題となったといいかえてもよい。
                     (「模写と複製」より)
     

    
★ 『表徴の帝国』/新潮社刊
ロラン・バルト 著 宗左近訳/1974年
     

―魂あるものと魂なきもの、という基本的な二律背反を扱って、≪文楽≫はその二律背反の成立を妨げ、そのいずれの側にも偏ることなく、背反を消滅させる。フランスの操り人形(たとえば道化人形)は、俳優と正反対のものを写しだす鏡を俳優に見せてくれるものである。この操り人形は生命なきものに生命をあらしめる。だがそれは、人形の劣等性、人形の無自動性の無価値ぶりをよりよく示すためなのである。
≪生命≫のカリカチュアにほかならない姿を見せることによって、この操り人形は≪魂≫というものの限界をはっきり示して、俳優の生きた肉体のなかにこそ美と真実と感情はあるのだと主張するものである。ところが現実には、俳優はその肉体を使って虚偽をつくるのである。
≪文楽≫はというと、これは俳優の存在を人形に刻みつけない。わたしたちから俳優を追いはらってしまう。何によって? 生命なき物質がこの舞台においては、生命さる(つまり≪魂)を与えられた)肉体
よりも無限に、より多くの厳粛と戦慄をもたらすものだという肉体観によって、である。西欧の≪自然主義的な≫俳優は決して美しくはない。俳優の肉体は肉体の原質となろうと願って、造型の原質となろう
と願わないからである。西欧の俳優は各器官の集合体、情念の筋肉の組織体であって、その器官と筋肉を活動させる個々のもの(声、表情、動作)は、体技に属している。俳優の肉体はもろもろの情念の原質の区分けに応じてつくりあげられているのだが、しかしここにはいかにもブルジョワジー的な裏返しがおこなわれていて、俳優の肉体は有機的な統一が不在の、つまり≪生命≫が不在の、不在証明を生理学からもらいうけるのである。ここでは、当の俳優それ自身が、紐のついた演戯の道具であり操り人形となる。そのお手本となるのは、愛撫ではなくて、ただただ内臓的な≪真実≫なのだから。
               (「魂あるものと魂なきもの」より)
     

    
★ 『アドルフ・アピア』/相模書房刊
遠山静雄 著/1977年
     

―ワグナーのいう芸術とは、一般に存在するあれやこれやの芸術ではなく、将来実現さるべき理想の形における芸術であり、最も深い人間の生の要求の一つである宗教的要求が満たされた世界観の表現であり、民衆の真実な宗教意識の産物でなければならないとする。単なる個人的趣味を中心として奢侈の欲望をみたすに過ぎない当代流行の芸術ではなく、真の生命共同体と内面的連絡をもつ芸術でなければならない。感情と悟性とをそなえた人間の表現であり、このような本来的人間の芸術が真の芸術である。彼の芸術論はこのような芸術のあるべき姿であって単に綜合された芸術の存在が許されるというのではなく、綜合芸術こそ最高の存在、真の芸術の到達すべき姿であるという。だから彼のいう全体芸術はもはや一般に意味される綜合芸術ではない。故に従来のオペラを否定する。

―価値ある芸術は現代のようには各芸術が分裂していなかったということ、いい換えれば現代のごとき各芸術の分裂割拠は芸術としては堕落だと考えている。西欧芸術の源たるギリシャにおいては芸術の全体性が完全に表現されていた。しかし悲劇が解消し、舞踊、音楽、詩文、造形等の芸術が分離するようになると真の詩作はとまってしまった。
                  (「ワグナーの楽劇論」より)