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推奨の本
≪GOLDONI/2010年12月②≫

『大石良雄』 野上 弥生子著
 岩波文庫  1928年
  

 少くとも今の内蔵之助には、復讐は熱情ではなく、單に義務であり、責任であり、運命との約束であるに過ぎなかつた。さうだ、今日の會合も亦約束だ。で、それを破らないために忠實に出席したまでであつた。この冷淡は、以前から自分の位置を濫用しない、彼の愼ましい性情に裏づけられて不自然には見えなかつた。而して内蔵之助はどんな相談になつても決して反對しまい。皆んなの好きなやうにさせればよいのだ、と思つてゐた。事實この仕事は彼等の仕事であり、自分は統領の名前を貸してゐるに過ぎない。而かも不都合な統領で、今になつて彼等に指圖がましいことをする機能はないと信じてゐた。で、議事は重に總右衛門、安兵衛、源五等の發言と提案で滑らかに進行した。
 『結構です。結構です。』
 その間上座に、床柱を控へて鷹揚に坐つた内蔵之助は、柔和な微笑で、何を云はれてもこの一語を繰り返した。
 お晝前から始まつた會合は夜に入つてまで續いた。復讐の最後の決議と共にそれに關する細目の打ち合せが悉く無事に終了した時には、老人達はこれでやつと死なないうちに本望が達せられると云つて滿足し、若い者は若い者で、早くも敵の首を上げたかの如く勇み立つた。前祝の心と、今日の目出度い決定を報ずるために、夜の明けるのを待つて直ぐにも江戸表へ立たうとしてゐる安兵衛の行を壯んにする意味で、酒宴が開かれた。人々は深い悦びと一緒に深い感慨を以つて杯を取交した。皆んなで内蔵之助を取り圍んで斯んな気持で酒でも飲むと云ふのは、幾月ぶりのことか知れなかつた。(略)
『内蔵之助殿も久しぶりに一つ如何で。』
『いや、どういたして。』
 内蔵之助は周章して辭退した。併し血縁の親しみで無邪氣に持ち出された老人の所望は、忽ち一座の願望となつた。彼等は内蔵之助が謠でも仕舞でも前の二人に劣らず堪能であり、以前は斯んな場合には氣輕に謠つたり舞つたりしたのを知つてゐた。
 『またとないことですから是非どうか。』
 さう熱心に勸めた人々の中には、織田信長が今川氏を討つ時、幸若の「敦盛」を舞つた話まで持ち出して、この席上で内蔵之助に何か一さし舞つて
貰ふことは、今宵の酒宴を一層有意義にするものだと信じてゐるらしかつた。總右衛門達はまた總右衛門達で、二人で露拂ひをしたのだから、横綱が出てくれなければ納まりがつかないと云つた。併し内蔵之助はどちらにも頑固に手を振つた。(略)
 内蔵之助は自分の拒絶で一座の興を殺ぐのを怖れながら、なんにもする氣にはなれなかつた。口で云ふほど醉つてゐるのでもなかつた。いつまで杯を重ねても、今夜の酒の味は徒らに舌を刺すのみであつた。内蔵之助は朱塗の大燭薹をともし連ねた廣間で、人々の笑聲と歡語に取り捲かれながら、ただ一人空山の洞に坐してゐるより淋しかつた。その寂寥と孤獨が何處から生じたかは、彼自身にも分らなかつた。仲間の者たちが最初の決心を揺がさず、今漸く目的に近づかうとして率直な悦びで夢中になつてゐるのが、自分の迷執の多い心に比べて羨ましかつたのかも知れなかつた。さうでないとは云へなかつた。而かも決してそれのみではなかつた。内蔵之助は膳の周りに集まつた杯を返すのをも忘れ、茫然と悲しげな面持で、前の燭薹の黄色く伸び上る焔を凝と見詰めてゐた。