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推奨の本
≪GOLDONI/2012年9月≫

 『観客席から ―芸術エッセイ』  遠藤周作著
 1975年 番町書房

 芸術祭がまた迫ってきた。
 正直な話、そう言ったところで張り切っているのは関係者たちだけで、一般の人たちはほとんど無関心であろう。新聞で受賞作の発表があってもチラッと一べつするぐらいのもので、それ以上の印象はない。(略)
 いっそのこと、あんなものは廃止してしまえという声がある。しかしたとえば平生は会社の命令で押しつけられた脚本を、乏しい予算で演出せねばならぬテレビのディレクターたちにとっては、この時こそ腕のみせどころでもあろうから、彼等のためにもあながち廃止説に我々は両手をあげるわけにはいかぬのである。(略)
 まず第一に芸術祭の賞金はそれに参加する者にとって人を小馬鹿にしているような小額である。五、六年ほど前、私はNHKのテレビ局からこの祭に何か書けといわれ、ともかく書き、奨励賞というものを受けたことがあった。奨励賞を受けたという手紙を私は仏蘭西から伊太利にまわっている時、NHKの演出家、M氏から受け、私は路金も乏しくなって心細かった時だったから「しめた、賞金がもらえる」と考えたのは無理もない。なにしろ奨励賞だって賞にちがいないのだから。
 ところが帰国して大急ぎで自宅に戻ると、私を待っていたものは、たった一個の文鎮であった。つまりこれが奨励賞だったのである。私はあの時ほど、文部省の役人はインチキであると思ったことは余りない。
 賞金のことなど口に出すのは下品だということも承知している。そして芸術祭の作品はゴンクール賞のように賞金の額によって左右されるものではないという考えの成立することもわかっている。しかし、ゴンクール賞と文部省の芸術祭賞では一点において決定的な開きがある。ゴンクール賞の賞金は少ないが権威がある。芸術祭賞は賞金が少なくて、権威がない。この点である。(略)
 他の世界のことは知らぬが文壇の新人賞である芥川賞だって、今の芸術祭賞よりは賞金だって多い。受賞者にたいする待遇だっていい。文部省はそういう一事だって調べてみるがいい。
 文部省がこうした民間のことを「知らなさすぎる」一例として、私は二ヵ月ほど前だったが、このお役所が音頭を取って国民文学を募集し、あたらしい有為な作家をみつけ、育て、日本文化に貢献するための賞をつくるという話を新聞で読んだ。だが文部省は今、日本のほとんどの文芸雑誌が新人賞その他の方法で新人作家を発掘しようとしていることを知っているのだろうか。新しい立派な作家を見つけようとする努力は心あるジャーナリストなら毎日のように考えている事実である。それをもし知っているなら、こういうジャーナリストたちの意見や方法をきいた上でその国民文学賞(?)なるものを考えついたのだろうか。おそらく、そうではあるまい。一時の思いつきか、みせかけの文化隆盛のジェスチュアでこんな企てを考えたとまでは言わないが、なにかそこに日本文学の実状も知らなさすぎる感がある。つまり実状勉強や調査不足なのである。
 そしてこのことは芸術祭にたいしても同じような気が私にはする。
 次に私は審査員たちにおねがいしたいことがある。それは将来万一の情実を防ぐためにも、あるいはそういう誤解が起きないようにするためにも、審査の選衡の経過を発表するべきだと言うことだ。(略)
 いいものは誰がみてもいいのであり、悪いものはだれがみてもどこか悪いものだ。
 だから私はこれは茶の間でベターだと考えた作品が新聞で発表される奨励賞にさえなっていないのを知ると、やはり不満を感じる。一体、これはどこが良くないと批評されたのを知りたいと思う。その感情は茶の間でみている者にもまたそれを制作した者にも当然であろう。
 にもかかわらず、その選衡の経過は公に発表されたことがない。(略)小説の世界では芥川賞にしろ、野間賞にしろ、新潮賞にしろ、委員の感想が掲載されている。それは作家にたいする礼儀でもあり、選衡者の見かたや観点を示すためでもあり、また、奨励や忠告を与えるためでもあろうが、その態度が公平であることを読者全体に知ってもらうためだとも思う。
 にもかかわらず、文部省の年中行事である芸術祭が、その選衡経過を全く発表せずに結果だけを示すのは、何か独断だという気がしてならぬ。「文句をいわず、ありがたく我々の選衡結果に従え」とか、それとも「我々の選衡眼は絶対に間違いはない」と言うような気持がそのような結果だけの発表でないと思うが、それならばなおのこと経過を堂々と発表すべきではなかろうか。
 今年私は芸術祭に参加する。そして落ちる。もちろん落ちたって、これが小林秀雄氏や伊藤整氏や福田恆存氏などのようにこちらが作品鑑賞の点で信頼できるような人の手によって落とされるなら、無念であるが仕方がないと思う。(略)
 (「Ⅱ 演劇  芸術祭」 より)