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推奨の本
≪GOLDONI/2010年3月≫

『下流志向―学ばない子どもたち 働かない若者たち』 内田樹著
講談社 2007年

 ついこのあいだ、『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』を試写会で見る機会があったのですが、この全六作を通じて、映画のメイン・テーマが師弟関係なのだということに気がつきました。アメリカ人は「師弟関係を通じての技芸の継承」ということについてはあまり関心がないんじゃないかと私は思ってきたので、『スター・ウォーズ』がそのテーマを正面に出してきたことに興味を覚えたのです。
 映画の中ではいろいろなことが起こるのですが、いちばん面白かったのは、「ジェダイの騎士」にはメンター(先達)がいて、メンターには必ず弟子が一人いるというその構造です。『エピソード2』と『エピソード3』では、弟子の方がメンターよりも腕前が上になってしまうという逆説が物語の縦糸になっています。アナキン・スカイウォーカーがオビ=ワン・ケノービよりも強くなってしまう。そして、「俺の方が才能がある。俺の方がもう師匠よりも強い」と言い出して、悪の道へ走ってしまう。 
 弟子が師匠の持っている技術は自分のそれと比較考量可能であると考えたときに、師弟関係は破綻します。アナキンは師のもとを去って、オビ=ワンよりも強いメンターを求めて、銀河皇帝の仲間になる。そうやって「フォースのダークサイド」に導かれて、ますます力を得たはずのアナキン・スカイウォーカーなのですが、これが最後に師匠のオビ=ワンと対決したときに、ぼろ負けしてしまう。
 僕は見ながら「おお、奥が深いな」と思って、けっこう感動してしまったのです。
 こういう話からあまり簡単なメッセージを取り出すのはよくないことなんですけれど、あえて申し上げると、「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。
 人の師たることのできる唯一の条件はその人もまた誰かの弟子であったことがあるということです。それだけで十分なんです。弟子として師に仕え、自分の能力を無限に超える存在とつながっているという感覚を持ったことがある。ある無限に続く長い流れの中の、自分は一つの環である。長い鎖の中のただ一つの環にすぎないのだけれど、自分がいなければ、その鎖はとぎれてしまうという自覚と強烈な使命感を抱いたことがある。そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ、と。
 弟子が師の技量を超えることなんかいくらでもあり得るわけです。そんなことあっても全然問題ではない。長い鎖の中には大きな環もあるし、小さな環もある。二つ並んでいる環の後の方の環が大きいからといって、鎖そのものの連続性には少しも支障がない。でも、弟子が「私は師匠を超えた」と言って、この鎖から脱落して、一つの環であることを止めたら、そこで何かが終わってしまう。
(略)師弟関係で重要なのは、どれほどの技量があるとか、何を知っているかという数量的な問題ではないんです。師から伝統を継承し、自分の弟子にそれを伝授する。師の仕事というのは極論すると、それだけなんです。「先人から受け取って、後代に手渡す」だけで、誰でも師として機能し得る。僕はそういうふうに考えていますし、およそこれまで師弟関係について書かれたすべての言葉はそう教えていると思います。
(「師弟関係の条件」より)

 今日論じる暇がなかったんですけれど、階層化が一番進んでいるのは、おっしゃる通り、実は文化資本においてなんです。
 「文化資本」というのはピエール・ブルデューの用語で、平たく言えば「教養」ということです。美術や音楽についての批評眼とか、適切なマナーとか、服装のセンスとか、ワインの選び方とか……そういう身体化された「お育ちの良さ」みたいなものです。フランスは階層社会ですから、所属階層が違うと生きる世界が違う。交遊範囲も、おしゃべりの話題も、着る服も、出入りするレストランも、みんな違う。文化資本は所属階層を表示する「名刺代わり」です。だから、その取り扱いにはみんな非常に慎重です。階層の下の人間がヴィトンとかエルメスを身につけたり、高級レストランで食事をすることは、「ルール違反」というか、ほとんど「履歴詐称」のようなものですから、階層社会では禁忌とされる。
 でも、日本は久しくそういうことはなかったわけです。「あいつは野暮だね」くらいのことは言いますけれど、それは所属階層とはあまり関係ない、金持ちでも、権力者でも、野暮は野暮だし、貧乏人でも、市井のあんちゃんでも、粋な人は粋、そういう点では文化資本的には民主的な社会だったと思います。
 それがここに来て急激に文化資本が社会階層の記号として機能し始めた。マジョリティーの教養がどんどん下がっていく一方で、社会的に高い階層にはまだ教養や趣味のよさをたいせつにする気風が残っている。
 佐藤学さんから伺ったんですけれど、東大のゼミでももう学生同士の話題が噛み合わなくなってきているそうです。音楽の話とか、美術の話とか、文学の話になると、そういう話題にまったくついていけない学生と、そういう話題がちゃんとできる学生の間にははっきりとした断層が生じている。子どものころから家に芸術家や政治家が出入りしているとか、留学していて外国語が堪能だとか、海外に友人がいて頻繁に行き来しているとか、小さいころから芸事をやっているとか、いわゆる昔ながらの上流社会の「リベラルアーツ」を身に付けて育ってきた子どもが一方にいて、子どものころから塾通いで勉強だけしてきて、本も読まないし、音楽も聴かないし、美術もわからない……というような学生が他方にいる。その落差がもう埋めがたくなっている。
 でも、この文化資本ギャップが際立ったのは、たぶん佐藤さんが観察されたのが東大という変な場所だったからだと思います。そこだと、他の条件が一緒なのに、文化資本についてだけ歴然とした差があるから、それが統計的な異常だということに気がつく。でも、一般社会に持っていくと、おそらく誰も気がつかないでしょう。だって、文化資本は統計的には正規分布してないんですから、下の方の階層の人は文化資本が豊かに備わっている日本人が存在するということ自体を知らない。日本人はみんな「自分程度」だと思っている。「教養のある人」がどこかにいるいうことがわかっていれば、自分には教養がないということもわかるし、教養を身につけないとまずいということもわかる。現に、大学に進んではじめて自分に文化資本がないということを知った東大生は必死になってその後れを取り戻そうとする。でも、自分には文化資本が欠けているということを知らない階層にはそもそも努力するモチベーションがない。だから、階層間の文化資本格差は拡大する一方なんです。
(「文化資本と階層化」より)