『直観を磨くものー小林秀雄対話集ー』
小林秀雄ほか著 新潮文庫2014年刊
福田 翻訳劇じゃなくて創作劇の場合、新劇を見にいって面白くないっていうのは、小林さん、どういうところですか。まあ、なぜ面白いのかじゃなくて、なぜ面白くないのかなんていうことは、話したって詰らないかも知れないけど、なぜ詰らないんでしょうね。根本は戯曲ですか。
小林 俳優でしょう。
福田 しかし、もっとその前の問題として、芝居嫌いっていうことですね、それはどういうところから出てくるんでしょう。
小林 ぼくの?
福田 ええ、小林さんの。もっともぼくも学生時代には戯曲を書いたことがあるんですが、それはもうバカバカしいもんだけど、とにかく書くくらいまでに面白かったんですがね、それから詰らなくなって、芝居嫌いになってしまったんですね。自分は芝居嫌いであるとばかり思っていたんですけど、そのうち、また書きたくなって来たんです。だから、小林さんだけじゃなくて、芝居嫌いっていう人は、ずいぶん多いと思うんですけど、人のことは兎に角として、小林さんはどういう所で芝居嫌いなのか‥‥。
小林 ぼくは歌舞伎ばっかり見てたからですよ。だから築地小劇場が詰らなかったんです。片っ方で小説読んでたでしょ? 片っ方で歌舞伎を見て、あれは踊りだとかなんとかいうけど、やっぱり芝居なんでね。面白いところは芝居なんでね。それはやっぱり、あそこで人間が何かやるうまさですよ。そういうものが‥‥。
福田 歌舞伎はスペクタクルじゃないですね。そういう要素はたくさんあるけれども、根本はそういうところじゃないですね。
小林 ええ、根本は俳優ですよ。なんとも文句のない魅力っていうものはね。だから、ぼくはそういうものはたいへん好きなんですよ。まあ、画も好きだし、音楽も好きなんだけど、そういう感覚から入ってくるものはね。ぼくを芝居嫌いにさせたものは、新劇なんだよ。
福田 大抵の人がそうかも知れない。
小林 面白い芝居があれば、きっと小説なんかよりズッといいですよ。とにかく目で見て、耳で聴くんだからね。こんな魅力のあることは、ほかにはない筈なんだよ。
福田 新派はご覧になりましたか。
小林 見ませんね、あんまり。
福田 新派でも新劇よりいいと思うんですよ、まだ。
小林 それはつまり成り立ったということでしょう。
福田 ええ。
小林 とにかく芝居というものは、成り立つことですよ。
福田 その根本は‥‥。
小林 俳優でさあ。作曲家だってピアノでもヴァイオリンでも、本当に知悉してなきゃいけないだろう? 劇作家にとって俳優というものは、もっと大切なものでしょう。芝居は一つの実際の協同組織ですからね、実際のね。そういう協同っていう意識を無くしてしまえば、これは散文芸術さ。散文という孤独な芸術の流行が、だんだん芝居の協同生活を壊していったんでしょう。
福田 ぼくは、俳優っていうものを作曲家の楽器と同じように知悉することが一番大切だ、ということは判るんですがけどね、同時に俳優は楽器でもあり、演奏家でもあるわけです。その場合、例えば現代の名優がモリエール劇やラシーヌ劇をやりますね、そうすると、モリエールやラシーヌは、現代の俳優を目当てに書いたものじゃ勿論ないでしょう。その当時の俳優を目当てに書いたんだけど、当時の俳優というものは、その当時の俳優というものは、その時の生活とか文化を背負ってるわけですね。その文化は今日にいたるまで連続していて、今日の俳優でもラシーヌやモリエールをやってのけられるんです。そういうことが、今日の日本にはないでしょう。だから役者も劇作家もつらいんだけれど、役者が演奏家として自由に解釈しうる戯曲を書かなければならないとぼくは思っています。
(略)しかし理屈はとにかくとして、書き始めると絶対に俳優が頭に浮びますね。
小林 それはそうでしょう。外国で何とかという役者の何とかという演技を見て来て、ひとつ、そんなふうに俳優をこさえてみようとか、育ててみようとかいうことは‥‥。
福田 それは役に立たないですね。
小林 ダメなんじゃないかと思うんだよ。理屈は確かに正しいかも知れないけれどね。歌舞伎だの新派と手を切るとなると、全部手を切る。俳優の演技の持続性がなくなっちゃうんだね。それで新しく俳優学校を建てて、新しく教育して、近代のナントカカントカ‥‥。これは理屈としてはあるんだね。だけども、俳優っていうものは、そういうものじゃないと思うね。芸人はね、そんなことからモノをおぼえるもんじゃないな。
(〈「福田恆存 芝居問答」。昭和26年11月、『演劇』に掲載。〉より)