内村 直也『女優田村秋子』
1984年 文藝春秋
「さよなら」が最後の言葉であったということは、考えようによっては、いかにも田村秋子らしい。
暗い感じの「さよなら」ではなくて、「軽い、はずんだ調子の、寧ろいたずらっぽく云ったという感じ」だったという。この表現で、私には充分分るような気がした。
最後の瞬間に、至極平凡な言葉で、明るく永遠の別れを告げる。深刻なところがみじんもない。これは、もしかすると…、とっさに出た言葉ではなくて、彼女のなかで充分考えられ、練られた言葉だったのではないか。
最後の三日は食事もとらなかったというから、死ぬ準備をしていたのだろう。その準備の中に、この最後の言葉が入っていたとしても、ちっとも不思議ではない。これは田村秋子の、最後の名演技、名セリフであったと考えたい。
(略)
私は残念ながら、彼女の生存中に、君津の老人ホーム訪問の約束をはたすことが出来なかった。私が、君津を訪ねたのは、彼女が他界して、暫く経ってからであった。前もって知らせておいたので、会長の四ケ所も、田村の従妹も、友達も待っていてくれた。
「老人ホーム」の彼女の部屋も、病院で息を引きとった部屋も見せてもらったが、もう片付けが済んでいて、田村秋子の面影のようなものは、なにもなかった。寧ろ私には、そのほうがさっぱりしていてよかった。
彼女が食べた食堂で、彼女が食べたと同じ定食を御馳走になった。
会長をはじめ、みんなが彼女の想い出話をしてくれた。一番興味深かったのは、みんなが、新聞記事その他によって、彼女というものが…田村秋子というものが、漠然とではあるが、分ったことである。
「そんな有名な、偉い人とあたし達はここで一緒に暮らしていたんですね」
という言葉に対して、私は、
「有名でもなかったし、偉い人でもありませんよ。ただ素晴らしい人でしたね」
というより他に説明のしようがなかった。
(略)
彼女は「女の菊五郎」とまでいわれながら、自分が納得できなくなると、舞台から退場して、頑として自分の方針をまげようとしなかった。
芝居以外に、趣味も道楽もなにもない彼女である。舞台を離れてからの三十年間は、全く勿体ないの一語につきる。私たちは、田村秋子の舞台を見たかった。彼女が演りたいという、最後の炎の残っているような、中年過ぎの女を、是非見せて貰いたかった。
自分がきめた道だとはいえ、この三十年は長い、寂しい、孤独な歳月であった。彼女にも弱い面がある。それを人に見せないようにして、我慢し、辛抱している姿は、私には可哀そうという表現しかない。
いかにも子供扱いにしているようだが、自分のきめたことは歯を喰いしばってでも守り通そうとする強情さは大人のものではなくて、けなげな子供のもののように思える。
最後の老人ホーム行も、私には可哀そうという言葉が一番適切である。
こんな三人の田村秋子が、一つになって、私に話しかけてくる。その日本語がまた、とてもいい。
下町の言葉が共通語でまぶされたような、自然で、親しみのある言葉である。声もいい。
いぶし銀のような彼女の名舞台は、この日本語の美しさであった。
(「第三章 舞台からの退場」より)