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推奨の本
≪GOLDONI/2011年6月≫

 『激流―若き日の渋沢栄一』 大佛 次郎著
  文藝春秋 1953年

 気がついてみると、篤太夫(渋沢栄一)は民部公子(徳川昭武)の供をして各国を巡遊し、いろいろと新しい文物を眺めながら、見ていたのは故国日本のことなのである。
 篤太夫の心は日本から離れなかった。眺めている対象を透して、灯火の暗い侘しい日本の姿が、影のように背後に見えてくるのである。異国に学ぶというのも、おのれを読むことであった。
 彼我の比較が、いつも頭から離れない。今更外国との競争は及びもつかないと判っているが、尊王攘夷の政治論だけで血を流し有為の若い人たちを無数に犠牲にしている故国が、いつの日にか、もっと実質的に、西洋諸国のように新しいものを生み出そうとする方角に、民族の目標を持つようになるか? 篤太夫は、それをつくづくと思うようになった。
 そのためには、武士に特権がなく町人が自由に存分に働き得る世の中にならねばならぬ。これは篤太夫が日本にいる内から漠然と胸に描いていたことだが、こちらへ来てからは念願となった。それと現在の日本の封建世界のように、地方も個人も孤立して分裂し、自己の利益と保身だけしか考えていないのを改めて、人と人との中に強い協力を見つけることである。狭い国に住んでいて、日本人でいながらお互いが異人を見るように警戒し合っている。水戸あたりでは一藩内の政治論が、もとの天狗党と書生党に分裂して、仇敵のように憎み合って、その争闘以外のことは頭にないのを見ると、心が寒くなることであった。それも、百姓町人には迷惑だけ掛けて、無関係に武士階級だけが必死になっている政争だから、前途を思うと恐ろしい。
 (「異国」より)

 (略)ヨーロッパで、彼が見てきたのは、主人持ちでなく、独立自由の人間が、どこへ行っても見つかることであった。否、主人を持っていても、人間が独立自由で、働くのに熱意を持っていることである。
 生きるとは働くことであった。日本のように、身分だけで人間の生活が保証されている特殊の世界は、まったく亡び去る運命にあったものだし、今日のように瓦解を見たのは当然のことだったと言えるのだ。
 仕事に自らの意欲を持つこと。それから、いのちが輝き出るのだ。魂はなく形骸だけが動いているような働きではない。おのれの仕事に情愛を注ぎ入れて初めて、仕事だし事業なのである。
 これは、衣食するというだけのものでない。働くとは、そういうことなのだ。生活の手段だけに留まっていないで、身を打ち込んだ目的なのだ。心に至誠のある者だけが、その門に入って、独立自由の人となるのだ、と強く思った。
「あんた方が、ない、ないと訴えているのは衣食の手段だけだ。それ限りのことなら、浅いものだし、やがて改まった世の中の方から、それを提供してくれるだろう。そうでなく、人間がもっと心を打ち込んで、離れられないほどの情愛を自分の仕事に感じるようなものを見つけなければ! 誠実に、それを求める人にだけ、これは恵まれる。運河を掘ろう。鉄道を敷こう。ガス灯をつけよう。暗い世の中が明るくなるのだ。人が今よりも文明の恩に浴して、現在に数多い不幸が、少しずつでも軽減されて行くのだ。これが人間の働くことなのだ」
 水戸に帰って民部公子に仕えるのをやめた篤太夫は、静岡に留まっていながら藩庁に勤めるのをやめた。
 主人は、もう要らなかった。実に、もう要らなかった。
 自分がひとりで歩く自由な人となって、広い世界に好む道を求め、なすあてもない日本人の間に、自分と同じように誠実に仕事に協力してくれる者をさがすことであった。日本人は、永く眠り過ぎて、外国に遅れていた。もう、目を醒ましてくれる者が幾らでもいる筈だと思って、篤太夫は自分が嬉しかった。。
 (「新しい道」より)