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推奨の本
≪GOLDONI/2010年12月①≫

雑誌『世界文化』創刊号  昭和10(1935)年

 歴史に於ける一つの歴史的な時代として此の時代を特徴づけるのは、確かに當つてゐる。これまでの時代の何とか解釋のつけ得られた、あり來りのテムポが、破られて、亂れて、所謂『非常時』―危険―なのである。ふとふりかへつて見て、自分の立つてゐる舞薹に氣がついた時、ひたすら今まで努めてゐた自分の努力が、これでいいのか、それともいけないのか、疑はれて來る。時代のテムポがすつかり變つてゐて、自分がそれについて行けるか、行けないか、に迷ふ。不安。今までのものが無意味に見える。ニヒリズム。正に此の様な不安とニヒリズムとの、此の時代のインテリゲンツィアの敏感な部分が今、立つてゐる。學問文化への不信頼と絶望。だが、まじめな頭と胸とは、到底此の様な不安と絶望には堪へられない。新しい、しつかりした、もう再びは背かれることを知らない文化の、大通りを探し求めざるを得ない。その様な世界文化の大通りこそは、ただまじめに努力する人々にのみ踏まれるであらう。努力すると云ふことは、動いてゐると云ふことだからである。だから、この雑誌も、出來上つた、一定の塲處に落ちついてゐる人々のものではなくて、たえず、本當のもの、正しいものを求めつつ、動いてゐる人々の友である。眞理の扉を、たたくことを忘れないでゐる眞摯な手によつてのみ、この雑誌は育てられるであらう。
(『創刊のことば』より) 

 
 明治演劇史研究の方法論 ―覺書   辻部 政太郎
 
  (A)目標=力點=及び問題の所在
 先づ、凡ゆる時期、凡ゆる分野に亘つた日本演劇史の系統的な研究が必要であるうちに、さしあたつて、特に明治演劇史が問題となる所以は、演劇に於ける現實の具體的狀勢からである。
 歌舞伎が客観的に見て既に夙くその進歩的使命を喪失してゐながら、又明治中期乃至末期以後先驅的新劇運動者等によつて口を極めてその早急な衰滅が云爲されつつ、それが現在の如き形でなほ大衆を強く摑んで居る事實、その一見鵺的な、いはば不死身な正體の最も根底的な秘密はどこにあるか。
 その反對に、所謂新劇は、明治を終へ大正を經て現在に到るまで、常に極端なる苦難の途を辿り、遂に今なほ歌舞伎の覇権を奪つて眞の大衆的演劇たり得るまでに到つてゐない事實。しかもそれが外見も華かで内容も充實した一時の狀勢から遥かに後退して、著しく追ひつめられ局面の打開に摑んでゐる實狀。この根底的原因も果してどこに求めるべきか。これらは直接的には勿論現段階の社會狀勢の複雑な反映であつて單に『歌舞伎』と『新劇』の對立の問題として簡單化し去つてしまふことは出來ない。しかし同時にそれは又十分の史的認識なくしては、到底正しく理解し得ないものである。従つて演劇史の正しい精密な分析が、この現在の狀勢に對して少くも間接的な示唆を與へるであらうことが見透される。就中、他の凡ゆる分野に於けると同様、短期間に急激に自己を變質し得た明治期における主流演劇―特に歌舞伎のより掘下げた史的把握が。(略)

 次に明治演劇史における最も根本的な問題の所在は、どこにあるか。これは、いろいろに考へられるであらうが、私は右の『明治演劇の外見的な、さうしてある意味では本質的な、全體としての不進展性の問題』を挙げたいと思ふ。
 この解決は、いはば明治期に(人々に多く氣づかずして)自らを巨大に變質した主流演劇―歌舞伎の性格性を指示し、又新派劇が折衷的に止つて遂に傍流を出でず、又新劇が種子は蒔かれたが十分に地に育ち得なかつた理由をも説明することになる。(略)

  (D)對象=及び文献
 (略)既に、今までに現はれた明治演劇史―特に歌舞伎史の部分―が俳優技藝史に偏してゐることは、これもまた歌舞伎の本質的一面から一應必然でもあるが、今後の研究においては、更に廣汎に全體として考察されねばならぬ。特に演劇經濟史としての劇場經營史の研究等は基礎的部分の一つとして重視さるべきものをもつであらう。従つて對象的範圍としては、劇場經營史、劇場構造史、劇場法令史、劇場風俗史、脚本史、舞薹批評史、舞薹美術史、舞薹音樂史、俳優生活史、俳優技藝史等の凡てが包含さるべきである。
 しかもこれらのおのおのは、羅列的にバラバラに取扱はれるべきではなく、全體として統一的に、しかも正當なそれぞれの交互的聯關において捉へられねばならぬこと、言を俟たぬ。
 これらのうち、劇場經營史は、直接一般社會狀勢に密接した一方の極であるといふ意味において最も重要なる部分であり、又俳優技藝史は間接に最も抽象され昇華された一方の極であるといふ意味において又最も興味ある部分である。しかもその両極ともいはるべき二部分に對して、同じやうに太い歴史的一線が貫かれてゐる筈であり、それが克明に辿られ分析され摘出されねばならぬ。