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推奨の本
≪GOLDONI/2007年12月≫

森 銑三 『傳記文學 初雁』
 1989年  講談社学術文庫

    一
 文政十年の初冬のことであつた。中国地方へ到つた浪華の名優三代目中村歌右衛門、俳号梅玉を、備中国賀陽郡宮内の吉備津宮の社家頭藤井長門守高尚が、秘かにその別荘鶏頭樹園に招いて、芸道に関することどもを何くれとなく問うた。
 歌右衛門は安政七年の生れでこの年五十歳、その芸はますます円熟の域に入らうとしてゐた。体は小がらで、風采は甚だ揚らないが、さすがに大役者らしい貫禄がある。高尚は鈴屋門の国学者として広く知られてゐる。明和元年に生れて、この年六十四歳、歌右衛門よりは十四歳の年上であつた。柔和な面ざしの裡に犯し難い何者かがあつて、いづこへ出しても恥づかしくない人品である。
 高尚は趣味が豊かで、物の趣をよく解してゐた。これまでしばしば上方にも江戸にも遊んで、当時の一流の役者の舞台をも知つていた。それでこの度歌右衛門の来たのを幸に、わざと自宅ではなく、吉野町の東の普賢院という寺の北隣に建てた別墅の方に呼んで、一夕を清談したのである。それで二人の話を傍聴した人はごく僅かであつたが、その内に橋本信古といふ人がゐて、対話を書留めておいてくれたものが伝へられてゐる、それには「落葉の下草」という」名が附けてある。内容は僅々七条に過ぎないが、さすがにとりどりに面白く、多少は演劇史の資料ともなるものがある。以下それを順次紹介して行つて見ようと思ふ。
 
     二 
 高尚は問うた。
「後に小六といつた雛助は、芸を少くして心持を出さうとしましたが、なくなつた団蔵の方は芸をば大変細かにしました。この優劣を、あなたはどうお考へですか」
 雛助は嵐雛助、俳号は眠獅である。この年文政十年を遡ること三十一年の寛政八年に、五十六歳で死んでゐる。その小六の名を襲いだのは、なくなる二年前のことだつた。雛助は、芸の余韻余情を尊んだ。晩年倅の二代目雛助の評判がよくて、しきりに見物の声のかかるのを却つて苦々しいこととして、「その場で褒めるのは浜芝居の見物達だ。小屋を出ればすぐに忘れてしまふ。ただ声さへ掛かれば嬉しがつて、余計なところで見得をしたり、場当りの台辞をいつたりしてわざと褒めるやうに仕向けるのは、大歌舞伎の者のすることではない。昔の名人達は、誰も皆あだ褒めせられぬやうにと、舞台を大事に勤めたものだ。以後慎しむがよい」といつた。さういふ逸事などもある名優である。
 団蔵は四代目市川団蔵である。雛助よりも十二年遅れて、文化五年に六十四歳でなくなった。この人は幼時から小芝居で鍛え上げて、小がらではあるが小手ききといはれてゐた。器用な芸風で、宙返りや早変りを得意とした。さういへば、雛助の芸とは大いに相違するもののあつたことが知られて来よう。
 雛助と団蔵との優劣は如何といふ問に、歌右衛門は答へていつた。
「小六が芸を少くして、心持を出さうとしましたのは上手の業で、余人の及びもつかぬことでございます。何の役をしても情を尽して、見る人々の心をそれぞれに動かすといふのが小六の独特の芸で、さやうな役者は昔も稀でございました。只今は絶えてございません。先の団蔵は芸を細かにして、見る人達の心に少しもさからわなくて、何をしても褒めそやされましたのは、これもたぐひの稀な上手でございます。けれども今時の役者の上手といはれます者は、誰も団蔵のまねはしますけれども、小六を学ぶことは出来ません。ただ嵐吉三郎一人が、小六を学ばうとする志がございました」
 この後に「評云」として、「此答にて小六より団蔵の劣りけること知られつ」としてある。歌右衛門の返事に、高尚もうなづいたのであらう。ただ一人雛助を学ばうとした嵐吉三郎は、数年前の文政四年に五十三歳で逝いた。この人はその芸風を花三分実七分と評せられて、少しも芸をゆるがせにしない役者だつた。歌右衛門には第一の競争者であつたが、さすがに歌右衛門は、その長所をよく見抜いてゐたのである。
 (「歌右衛門と高尚」より)