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推奨の本
≪GOLDONI/2010年10月≫

『観劇偶評』三木 竹二著  渡辺 保編 
 2004年 岩波書店

 原来能を演劇に摸するは好処三つありと我らは思ふ。第一能の形を模するなり。その故は能にはわき、つれ、して、狂言師など、それぞれの順序正しく、その役々の並び方まことに整へり。演劇は眼にて見るものなれば、浄瑠璃作者が早く人形の並べ方に苦心する如く、俳優が舞台に並ぶ風情、よく整わではかなわず。いはゆる引張の見えなどいふはここの事なり。されば「勧進帳」にて弁慶が往来の巻物を取りて読むを、富樫が伺う辺など言ふべからぬ味あり。第二は能の振を喪するなり。例之ば「橋弁慶」の立の如き、「土蜘」にて蜘の糸を出す如し。第三は舞台の道具立の淡泊なるところを学ぶことなり。我らももとよりわが邦演劇の舞台を能舞台と一様に味なきものにせよといふにはあらず。しかれども欧洲、殊に仏蘭西などの大演劇場にてあまり大道具に凝るため、観客はその景色よきに目移りしてじやじやとの喝采はあれど、その代わり芸の方は次第にニの町になるは識者の卑むところと聞く。わが邦にても近頃随分道具に凝る癖起りて、実地実地と摸するやう勧むる人もあれど、労して功なきこともまた少からず。例之ば菊五郎丈が「梵字の彫物」にて使ひし日光陽明門の道具に数千円を費ししが、それほどの評判もなかりき。中には左団次丈が「血達磨」の火事など大当りなりしが、これらは芸道の上にてはあまり誇るべきことにあらず。もとより両丈などは道具建の当りを頼みて芸道をゆるがせにするやうな人にはあれねど、後進の人々がかかる真似をすることなど流行りては斯道のために憂うべし。
 また能より演劇に摸して悪しきこと一つあり。そは正本の脚色を能より取ることなり。その故は能の筋立はもと淡泊なるものなれば、その好処は優美にして品格を備へ、おもに叙情的もしくは叙事的なるところにあるべし。正本の筋立はこれと異なり。ここにてはまことに戯曲的ならんこと必要なり、その筋の上の葛藤も分別ならざるべからず。「鉢の木」「勧進帳」はなほ可なり。しかれども「釣狐」「土蜘」の如きは純粋の能とほとほと差別をつけがたし。予らは成田屋丈、音羽屋丈などが斯様なる無味淡泊なるものを採りて、新歌舞伎十八番、演劇十種の中に数へ、幡随長兵衛、明石の島蔵などを後廻しにするを怪む。かの「橋弁慶」、「茨木」の所作事の範囲を脱せざるもまたこの類なり。
(明治二十五年二月 深野座<新富座>)