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推奨の本
≪GOLDONI 2007年1月≫

『近代演劇の来歴』 森話社刊
神山 彰 著  2006年

 六 「団菊爺」の老人力――回想と記憶 
 かつての役者は、若年の夢の模倣から出発するのが常だった。それが正夢であれ悪夢であれ、敬愛する役者への崇拝、盲信は度し難いものすらあった。だからこそ、彼らにはどこか充たされない欠落感があり、それが反転して魅力を放っていたのだ。一方、現今の多くの役者にはその過去への信仰は欠落している。過去は都合のいい時だけ切り売りされ、父祖代々の「何代目」という権威づけにだけ利用される。代々名は単なる固有名ではない。そこから導かれる記憶、重層する記憶の連なりが重要なのだ。役者自身がそれを捨て去り、観客から失われたことを実感させる如実な例が、元来、公の場で観客と役者が過去との繋がりを確認し共有する唯一の機会であるべき「口上」の一幕である。「成田屋を追慕の言葉身に染みておろそかならず口上の幕」は団菊五十年際興行に際しての吉井勇の歌だが、評判記や演劇史に残る名口上は滅多にないのは承知しても、過去との繋がりの欠落した昨今の口上は誠に虚しい。
 だが、その責は演者だけが負うべきでない。観客もまた「舞台の面影」を追う思いに乏しい。赤瀬川原平の造語「老人力」は、もとより歌舞伎にこそ相応しい用語である。加齢と年輪による魅力、それと逆の、勢時を思うといや増す美貌の無惨な衰えや落魄や老残―数十年にわたる、演者と観客の共有する記憶の重層こそが、歌舞伎の舞台と客席という社会を繋ぐ掛け橋だったのだ。ギリシアのアフォリズムに「青年に知恵があれば、老人に力があれば」というのがあるが、青年の能わぬ老人の特権こそが回想であり、わけても歌舞伎の「老人力」の最大の発現が「回想力」だったはずである。だが、それもまた、急速に衰え、観客はもはや思い出す力を失ったように見える。もちろん、小林秀雄ではないが「上手に思い出す事は難しい」。観客はひたすら回想し、ただ記憶を集積する力や、記憶を引用し、導き出す力と方法を喪失してしまった。演劇的経験は希薄化し、数十年前と同じ趣向でも、たまたま出会った舞台を新しいとする無邪気な錯覚が一般化している。
 一九七〇年代までは、「団菊回想御三家」とも称すべき遠藤為春、高橋誠一郎、藤浦富太郎をはじめ、各界古老、市井の老人が、七、八十年前の追憶を生動感溢れる口調で語り続けた。彼らに共通するもの、それは一切の解釈を排してひたすら回想するだけの凄みだった。彼らは「評論家」でも「研究家」でもなく、「演劇回想家」とも称すべき連中だった。一九六〇年まで歌舞伎の座付歌人ともいうべき存在でもあった吉井勇も、ひたすら回顧する紋切型の、しかし往時の客席の空気や匂いの伝わる歌を作り続けた。「亡き友の書きし身替座禅見てわが回顧癖いまだ止まざる」。短歌という形式が詠嘆を伴う性質上、回想に向くのかもしれないが、そこには過去との繋がりを保持した、ただひたすら追懐し反芻するだけの断念と、同時にどれでも決して充たされることのない老人の官能の凄みが感じられる。解釈すれば、それは怖くない。彼らは目と耳の記憶を語り続けただけだ。もし「人間性」「現代性」だのといった紋切型の語彙で、したりげな解釈をすれば、「団菊爺」の思わずたじろぐようなグロテスクで不気味な「老人力」は消えて、ただの凡庸な評家にすぎなかっただろう。
  団菊爺のいた時代は、新派、新劇の「築地爺」はおろか、「アングラ」でさえ昭和初期のダダイズム隆盛期を知る「ダダ爺」ともいうべき風貌の古老がいて、二十歳前後の私どもが安酒場で昂揚した気分で喋ると、「そういうエンシツはムカシからアンだよ、ムカシッから」と一喝されてしょげさせられたものである。一九八〇年代以降、歌舞伎から「小劇場」に至る迄、そういう記憶の蓄積による凄みは消え、客席にはどこかで聞いた解釈と、仲間意識による充足と、他愛無い喝采とだけが横行しがちである。
(「Ⅱ さまざまな明治―「江戸育」の残像 第五章「江戸育」と「個性」の間」 より)