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推奨の本
≪GOLDONI/2007年2月≫

 『小説神髄』  岩波書店刊
坪内 逍遥 著  1936年

 小説は勧善懲悪、世を諷し俗を嘲るを目的となすを云ふ議論は果して當つて居るか居らぬか。勧善懲悪は道徳家の目的である、教育家の目的である。小説は勧善懲悪を以て目的とすると云へば、教育家の目的は道徳家の目的と同一と為らねばならぬ。小説は道徳家や教育家のお道具に為らねばならぬ。また道徳家、教育家の奴隷とならねばならぬ。大層小説の位が下がる。外の人に使役されるものになる。果して勧善懲悪の目的だと云ふならば、勧善懲悪の主意が十分届いて居れば、其小説は完全無缺の者と云はねばならぬ。我國の馬琴の如き、英吉利のリチヤードソンの如き人の小説は、完全無缺の小説であらう。是より上の小説はなからう。然るに世間の人は曰く、馬琴の小説は荒唐でいけない、リチヤードソンの小説は道徳に偏してゐる、と云ふ。さうして見れば、勧善懲悪ばかりぢや足らないに違ひない。語を換へて之を云へば、勧懲は第二の目的で、別に第一の目的があるに相違ない。菊五郎が加賀鳶に扮したときに階子乗りをする。團十郎が崋山の役をしたときに繪を書く。或学者は之を罵り、餘計な事をする。俳優の本色ではないと言つた。然し私は之を罵らぬ。罵らぬ計りではない、之を褒めるのである。何が故に爾云ふかと云ふに、團十郎の繪を書き、菊五郎の
階子乗りをいたすは、固より其本分の藝が十分に出来た上に、崋山、加賀鳶に扮し得た後に繪を書き階子乗りを致すのであるから、それ故悪いと言はぬのである。第一の本分を為し遂げて後に、餘力を以て繪を書き階子乗りをするから許すのである。眼目の仕事をやつた後に繪を書き階子乗りもする位ゆゑに、却て賞すべき者であります。然るに若し、緞帳芝居の俳優が生意氣に階子乗りをやつた事なら、諸君はいざ知らず、私は頭から叱りつける積りである。蓋し末を眼目として本を忘れ、幹を捨てて枝葉の事柄をするからである。 
論者が所謂勧懲を以て目的とするは、亦之に類した理屈ではあるまいか。勧懲といへば表向きが好い。聞いたところで體裁がよい。譬えば楊弓のドン的のたぐひで、聞いた所が好い。併し眞正の目的ではない。
                  (『美術論』より)