2017年05月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

« 劇場へ美術館へ≪GOLDONI/2009年1月の鑑賞予定≫ | メイン | 「新国立劇場の開館十年を考える」(三十四)    ≪舞台芸術環境を悪化させる「新聞社制定賞」について≫ »

推奨の本
≪GOLDONI/2009年1月≫

『日本の私塾』 奈良本辰也編
 淡交社 1969年

    
 学問が専門化していって、その相互の関連がなく、ただいたずらに細分された労作が積み重ねられてゆくのみなのである。総合大学という呼び方は、いったい何のためにあるのであろうか。もちろん、総合研究というものも行われている。多くの人びとが集まって、意見を出し合いながらやってゆこうというのだが、あまりにも細分化され、専門化された研究には、単なる意見の交換はあっても、それを基礎にして、新しい体系をつくりあげようとする創造の芽が育たないのである。
 「専門バカ」という言葉が聞かれる。たしかに、戦後の大学は、この「専門バカ」をつくり過ぎたようだ。新制大学としての急激なふくらみは、戦前の中等学校以上の新しい大学をつくりだし、そこに採用される先生とか教授とかいわれる者の数を史上空前のものにした。そして、それらがすべて、論文の数によって認定されたのである。専門的な論文がいくつかあればそれで資格ができるのである。
 探究の末にたどりついたというような論文ではなく、ただ、その大学教授の資格をとるための研究に人びとの頭が向いてしまったのも当然であろう。もちろん、自分の魂を痛めつけて、その苦悶の末に考えだしたというような労作があらわれるはずもない。要するに、専門的な労作がいくつかあればそれでよいのである。 
 かくして、学問とか研究と称されるのものが、人間や思想というものから著しくかけ離れてしまったのである。そこに、大量の学生が投入されてきた。彼らは、激烈なる入学試験の結果、そこに迎え入れられたのであるが、その試験の結果に、いや大学をめざしての悪戦苦闘の結果に、満足すべきものをそこで見いだしたであろうか。
 (略)私は、今日の大学は改革されなければならないと思っている。それは情報産業の時代にふさわしい大学である。つまり、それは大学の巨大化をさらに進めることによって、それを電波によるか通信によるか、何らかの形で全社会のものにするのである。それが行なうカリキュラムの編成は、永井道雄などが言っているような大学公社というものがしたらよいであろう。もちろん、資格の認定も大学公社の責任である。
 そして、いま一つの方向は、私塾なのである。私塾とは、あの大学が原の位置に復帰して、今日の状態にふさわしい姿で再出発するということである。元来、ユニバーシティ(大学)なるものは、ヨーロッパで十二世紀ころに始まったもので、ボローニャやパリなどの有名無名の学者が、工匠のギルドに似せてつくったものといわれている。(略)そこには教える者と教えられる者と人間的な信頼があり、精神的な紐帯があった。私は、教育というものは、そうした関係のなかから生まれ出てくるものであると思っている。人間の才能を平均化し、ローラーで押しならしてゆくような教育環境に本当の教育があるはずがないのである。そこにつくりだされるのは単なる大学卒という人間の商品化でしかない。
 ところで、わが国における私塾であるが、これは一方において、幕府教学の総本山ともいうべき昌平黌と、それにつらなる各藩の藩校との対立物として生まれたものである。(略)ここでは、教える者と教わる者との呼吸が一つになっていたのである。それは人間的なつながりにおいて成り立っていた。だから、そこでは「三尺離れて師の影を踏まず」というような師弟の関係をはなれてかなり自由な討論もなされたようである。山崎闇斎はその塾生たちを前にして、「もしも孔子が大将となり、孟子が副将として、わが日本の国を攻めてきたときはどうするか」というような問いを発したと言われている。このような、大胆不敵の問いが投げかけられるというのも、その私塾の比較的自由な雰囲気がこれをなさしめたのであろう。
 そして、中江藤樹が熊沢蕃山に対してしたように、その入塾が簡単にいかなかったこともある。蕃山は、その軒下にすわり込んで動かず、ついに藤樹の許しを得た。そしてここに学ぶ数年間の苦労は、なみたいていのものではなかったという。もちろん、これは藤樹がそれを蕃山に命じたのではない。蕃山自身が選んだ道であった。
 このような形においてある以上、私塾は、その学者の数ほどあったといってもよかろう。しかし、その私塾がすぐれた人物を生みだすためには、そこにすぐれた学者がおり、またすぐれた指導理念のようなものがなければならなかったのである。
(はじめに〈奈良本辰也執筆〉より)