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推奨の本
≪GOLDONI/2011年5月≫

『現代日本私注』 加藤 周一著
 平凡社 1987年
 

 不条理劇
 近松に後れること半世紀ばかり、十八世紀の後半に、今日まで上演回数の多いという意味で代表的な「三大歌舞伎劇」が作られた。『仮名手本忠臣蔵』、『義経千本桜』、『菅原伝授手習鑑』、そのどれもが緊密に構成された劇ではなく、全体のすじとの関係がきわめて薄い多くの場面を併列した見世物である。したがってその全体から、好みの一場面を描きだして演じることができる。たとえばお軽勘平、忠信の早替り、寺子屋など。
 全体のすじは、『忠臣蔵』の場合には、討ち入りへ向かう敵打ちの話として一応通るが、『千本桜』や『手習鑑』の場合には、複雑であると同時にあまりに不合理で、ほとんど意味をなさない。今日からこれをみれば、一種の不条理劇である。そもそも狐が忠信に化けたから役者が早替りの芸をみせるのではなく、早替りの見世物を作るために狐が忠信に化けたのである。話のすじとして、なぜそこに狐の出る必然性があるのか、と問うこと自身が、見当違いであろう。重点は、あきらかに、話の全体にも、場面相互の内容的な連関にもなくて、場面転換の効果と、それぞれの場面の情緒の密度にある。
そのために用いられた手段は、発達した舞台装置、三味線に乗せての歌と踊り、舞踊化された所作、様式化されてよく響く科白などであり、殊にまた極端な状況の設定――主人のためにわが子を犠牲にする、夫の忠義のために妻が身を売る、そのほかさまざまの義理を通すために人情に逆らって行なわれる犠牲の諸類型――などである。
 今日からみての「三大歌舞伎」は、第一に、様式化された見世物であり、第二に、その情緒の濃密さを、人物の個性によってではなく、類型的人物相互の関係によって作りだすものである。もし何らかの事情によって、主人の息子を救うために自分の息子を犠牲にせざるを得ない状況に臨めば、特定の親ではなくて、どういう親でも感情の激動を経験するだろう。しかもその状況は、特定の親の特定の個性とは無関係に成立したものである。その状況に対する、あるいはむしろ、その状況を成立させる社会とその「イデオロギー」に対する批判は、歌舞伎にはない。「すまじきものは宮仕え」――それは例外中の例外として、幾らかの批判らしきものであるかもしれない。しかしそれだけでは、不条理劇を不条理でなくすることはできない。
 (「歌舞伎雑談」より)

 現代芸術の諸問題
 技術文明に特徴的な価値の体系は、世俗的である。その内容を消費面からみれば、物質的な「快適さ」であろう。可能な最小限度の努力で得られる「快適さ」が理想とされる。たとえば、ボタンを押し、「つまみ」を廻しさえすれば、番組が出るテレビの機械は、その理想に近い。椅子から立って「つまみ」を廻す努力も省き、遠隔操作で番組を変えることができれば、なおさら理想的であろう。病人用でないテレビの機械がそういう方向に「進歩」することと、番組そのものが、知的または想像的にかける負担の最小限度で、楽しみをあたえるように(つまりどんなばかにもわかるように)工夫されることとの間には、あきらかに並行関係がある。このような価値が、芸術家にとって容易に受け入れがたいのは、当然だといわなければならない。芸術家がもとめるのは、「快適さ」ではなくて、表現だからであり――自己表現は快適であるとはかぎらない――また努力の最小化ではなくて、おそらくは大きな努力や注意を通じてのみ得られるだろうところの楽しみの最大化だからである。
 他方、生産の面で、技術的、工業的社会に特徴的な価値は、最小の手段で最大の目的を達成すること、つまり「効率」のよさである。目的と手段を鋭く区別し、「効率」を標準として、手段を合理化するとき、重要な役割を演じるのは、「方法」という概念である。ここで「方法」とは、あらかじめ明瞭に定められた手続きで、その手続きさえ習得すれば――習得は一般に容易である――だれでも確実に特定の目標に達することのできるようなものをいう。その意味での「方法」は、「熟練」と対照的である。図工がコンパスを用いて円を描くのは、方法的手続きであり、画家が絵筆で円を描くのは熟練の手続き(職人的手続きともいえよう)である。熟練による仕事は、その能力を獲得するために長い訓練を必要とすること、仕事に当事者の感じる喜びが大きく、しばしば制作の過程そのものが目的とみなされる(その意味で、手段と目的が鋭く区別されない)ことなどの点で、方法的な仕事と異なる。芸術家は、方法化された工業生産によって支えられる社会に生き延びたところの、数少ない職人の一種であり、この社会が生みだした「能率」や方法的合理主義に抗して、自己の人格をその仕事において実現しようとするものである。
 かくして社会の支配的な価値と、芸術家のよりどころとする価値とは、鋭く対立せざるを得ない。物質的な快適さに対しては、精神的な表現、方法に対しては熟練、効率に対しては自己目的としての生産過程。このような対立は、価値の水準での、芸術家の現代社会における疎外の内容である。
 (「芸術と現代文明」より)