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雑誌記事から The Ginza Times 2013年7月1日

煉瓦地(108) 佐藤龍夫著

(略)我々が観に行くのは必ずしも「芝居」ではない。「芝居の中の役者」であり、いや時とすると「役者」そのものでさえあるのである。宝塚の少女歌劇だって、ファンのお嬢さん方は、天津乙女の小夜福子のと言って騒いでいるではないか。すなわち役者あっての芝居なのであって、芝居の魅力はその九十パーセントまでが役者個々の魅力で持っているといって差し支えない。特に歌舞伎において然りとする。出雲の阿国以来、歌舞伎の歴史はそのまま役者の歴史である。役者を除外してどこに歌舞伎があるか(断っておくが、私は演劇論をやっているのではありませんぞ。)
それに近頃の歌舞伎のごとく、歌舞伎本来の夢幻美、絵画美、音楽美がだんだん薄れて、いわゆるコクのない水っぽい芝居にばかりなってしまうと、わずかに生き残った二、三の江戸前の役者によってわれわれは伝統的な歌舞伎の雰囲気をせめても味わうより外に方法はない。いや、ここに二、三の役者と言ったのは、むしろ一人の役者と言い直したほうがより正確だろう。すなわち、市村羽左衛門その人である。(略)
いったい芝居というものは、なぐさみに見るものであって、二週間も三週間も前から予定を立てて切符を買い、ムキになって当日を待つなんて性質のものでは決してない。また、それだけの値打のある芝居が一つでもあったら、お目にかかりたいくらいのもんだ。
要するに、最も健全かつ常識的な芝居の見方とは、家族団らんの食卓で、ふと芝居の話に花が咲き、一本のビールに陶然とした主人公が、「どうだい、一夕、歌舞伎を奢ろうじゃないか。上のも、もう女学校を出るんだから、「勧進帳」くらい見せておかないと、人中へ出たとき話ができないぜ。今度の土曜日はどうだい? ナニ、明後日? そりゃ丁度いいや」てな具合。
あるいは、細君が新聞の上で髪を梳きながら、ふと広告欄に目をとめて、「ねえ、新派で浪速女をやっているのよ。活動もよかったけれど、お芝居もいいでしょうねえ」とさりげなく話しかければ、長火鉢のところで煙草をふかしていた亭主が、女房も年中、子どもの世話に追いまわされているんだから、たまには芝居も、てな具合。
(第二十六章 興行界今は昔(三) 芝居)