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新聞・雑誌記事から 「歌舞伎新聞」 昭和56年6月1日

観劇五十年 思い出すまま80
名優・名舞台あれこれ(六) 三世・市川寿海

(略)門閥が大きくモノをいう歌舞伎界にあって、名門の出でないために、孤軍奮斗みごと大成し、歌舞伎役者として最高の地位を占めたのだから、正に立志伝の人である。(略)「将軍江戸を去る」の徳川慶喜、「元禄忠臣蔵・御浜御殿」の徳川綱豊、「番町皿屋敷」の青山播磨、「鳥辺山心中」の菊池半九郎等々々、記憶にのこっている舞台もずいぶんある。あの朗々たる名調子はいつも耳を楽しませてくれた。この人にとっての不幸といえば夫婦仲に子がなく、賢夫人の聞こえ高かったらく夫人をうしない、さらに養子に迎えた市川雷蔵を若くして亡くしたことは大きい悲しみだったろう。役者にめづらしく醜聞のなかった人。正に梨園の好紳士といってよく、この点が二世左団次とよく似ている。舞台以外の趣味といえば画を描くことは玄人芸、ぼくもたくさんいただいて大切に保存しているが、その一つ一つに几帳面な寿海がうかがわれる。それに茶道に造詣ふかく茶人役者として亡き三津五郎と共にその道の人々に知られている。この人格にベタ惚れだったのが、この人を守る後援会のリーダー故幸谷吾太郎氏で、「寿会」と名づけ、盛んなときは三千人にちかい会員だったという。(略)
数々の名舞台は歿くなるまでいろいろ見て来たが、「番町皿屋敷」にからまるエピソードを紹介しよう。そのむかし寿美蔵のころ、この「皿屋敷」が京の花街で話題になって、老妓たちがあつまった席上「あの青山播磨とお菊は関係があったのかなかった」とワイワイやり合ったことがある。その時寿美蔵と仲よしの老妓が、「ほな、一ぺん寿美蔵ハンに聞いてみたらどうや」ということになり、そのたづね文が寿美蔵のもとへ届き、数日後返事が来た。みんながその手紙を読むと「おたづねの件、さっそくお菊にたづね申し候ところ、はづかしながらと面(おもて)を染め申し候」とあった。こんなしゃれた手紙を書くぐらいなのに粋人らしさの話題のなかったはウソのようで、一同さらにまた寿美蔵ファンになったという。
雷蔵が亡くなった告別式の折、一人淋しく椅子に腰かけていた寿海の姿がいまも眼にのこっている。一ばん期待をかけていた人に先立たれたのだからこんな悲しいことはあるまい。しかしこの人がその悲しみに堪えて、起居不自由な最後の舞台までをつとめた心中を察しると、万感無量なものがある。時折この人のレコードを聴き、在りし日の舞台をしのぶのもうれしい一ときである。【菱】