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「財団法人新国立劇場運営財団の存廃」について考える(十三)

行政刷新会議の事業仕分けで、文部科学省・文化庁の事業に「廃止」「整理・削減」連発(7)

 政府は芸術を支援したがっている
 前章で提起された政府の芸術への関与に対するレントシーキング(特権的な権利要求)からの説明と、本章で提示された政府の関心からの説明の間には、どのような関係があるだろうか? 両方とも政府の利害に端を発しているが、しかし、前者は政府の外部の集団が利益を求めて政府にかける圧力を強調するのに対して。後者は政府の権力と政府の関心を強調する。これらのアプローチは「贈与―義務」の連続体の両極にあるが、それにもかかわらず、これらは相互補完的でもある。互いの利害が絡み合っているのである。
 第二次大戦後、芸術は政府のドアを叩き、のちにビジネス界のドアも叩いたが、政府とビジネス界もまた芸術を追い求めた。芸術は資金的に悲惨な状況から逃れるために政府を必要とした。このひどい状況は、アーティストの供給過剰と芸術の低い生産性のために起こった。一方で政府は、先に述べたように、国民の結束を促進するとともに、他国との競争における文化戦略として利用するために芸術を必要とした。 
 芸術が助成を必要とし、政府が助成を提供しようとした事実からすれば、芸術界から相当なレントシーキングがあったと予想されるだろう。しかし、第9章で分析したように、芸術界はけっして政府に効果的な圧力をかけることができるほど組織化されたことはなかった。本格的に組織化されたレントシーキングは発達しなかったのである。
 芸術の自由という基本的な考え方に反するために、芸術界は影響力を持った組織をつくることはなかった。さらに、新たに見い出された自律性を失うことを恐れたために、芸術界は高圧的な政府の関与に抵抗してきた。特にアメリカでは、政府の関与への不信が強く残っている。ビジネス界の芸術への関与に対する恐れは、アメリカではあまり主張されなくなってきた。ヨーロッパでは正反対である。ヨーロッパではビジネスへの恐れが最初に起こったために、芸術界は代わりに政府の関与に同意した。そして、わずか数十年後に、ビジネス界は芸術のパートナーとして受け入れられるようになり、その反対にビジネス界も芸術を受け入れるようになった。
 ほとんどの国では、芸術への一人当たりの政府の支出は、インフレを補正しても、第二次大戦後から一九八〇年頃まで着実に上昇した。一九八〇年以降、ほとんどのヨーロッパの国々における芸術への支出は、多かれ少なかれ安定している(イギリスのような国では、八〇年代に支出がやや削減されたが、九〇年代に再び補正された)。政府は芸術から手を引こうとしているという芸術界に広まっている考えとは反対に、一人当たりの支出が削減されたことはなく、近い将来に芸術への支出が減るというまことしやかな徴候もない。したがって、他の分野との違いがあるとすれば、芸術への支出は組織化された外的圧力に呼応していない、ということであろう。すなわち、政府の関心が大きく関与しているようなのである。 
(「第10章 芸術は政府に奉仕する」より) 

 助成が増減した場合の未来のシナリオ
 西ヨーロッパの主要国には助成金が少ない状況を好む人がいるが、これは必ずしもアメリカの芸術界をヨーロッパの芸術界の鏡にしようとしているという意味ではない。芸術を支援する長い歴史のあるヨーロッパでは、ここでの議論のように芸術界は強みと弱みを持っているが、どちらも簡単に変えられるものではない。それにもかかわらず、西ヨーロッパ主要国の芸術界はその強みを維持するために政府の助成に固執するが、政府は徐々に芸術への助成と関与を減らし始めるか、あるいは少なくとも、これ以上助成を増やすことはないと私は考えている。
 しかしながら、現在のヨーロッパでは、その反対のことが起こっている。一九八〇年代から一九九〇年代初頭の景気後退以降、各政府は再び芸術への関与を増やし始めているのである。また、例えばポップ・ミュージックや他の新しい芸術形式などを含め、助成する芸術のタイプを広げようともしている。いまのところ予算は少なく、基本的に象徴的な機能しか果たしていないように見えるが、しかし、いったんこのような助成を始めると、広まる傾向がある。この傾向が続くと、エスタブリッシュされた芸術と新しい芸術との間の象徴的な競争はより公平なものになっていく。しかしながら、それと同時に、助成はポップ・ミュージックをはじめ、国際的な舞台で競争している他の新しい芸術の革新に害を与えるだろうと私は考えている。さらに、私は最終的に悪夢のようなシナリオを心に描いている。それは、すべての芸術における試みが政府の支援に依存し、そのために、助成を受ける者と受けない者との間の線引きを行なう官僚主義的な委員会を志向するようになる、というシナリオである。しかしながら、このシナリオが完全に展開するか否かは疑わしい。結局、芸術への政府の関与の存在理由は選択した芸術の神聖化にあるのであって、すべての芸術をひとつの官僚主義的な権力のもとに服従させることによって等価にしようとするものではないからである。
 政府は人々の願いとは関係なく、芸術への関与のレベルを引き下げることによって、その無慈悲な経済を緩和することに貢献しようとしているのではない。したがって、芸術の例外的経済はけっして永遠のものではないけれども、しばらくの間、多くの者が芸術の高いステータスに高額な対価を払い続けることになるだろう。そして、アーティストは自分を犠牲にし続け、芸術という祭壇で生け贄となりながら、無慈悲な経済の矢面に立ち続けるだろう。
(「第12章 結論―残酷な経済」より)

『金と芸術―なぜアーティストは貧乏なのか?―』ハンス・アビング著 山本和弘訳 2007年 grambooks刊