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「文化庁予算の大幅削減」について考える(七)

 長谷川孝治氏の著書『地域と演劇―弘前劇場の三十年』(寿郎社 2008年)に、文化行政のあり方、助成のあり方、そして「文化庁予算の大幅削減」について考えるに相応しい文章があったので、前回同様に「推奨の本」の体裁で紹介する。

 ≪芸術・文化に対して行政は一体何ができるか。この時期青森県の文化担当行政官であった私と同い年の白取功は、まず非常にバランスの取れた考え方をする人物で、さらに津軽弁で言う「ずるすけ」(直接的には不良を指すが、ずるいという負の意味よりもマキャヴェリズムという現実主義者を指す場合が多い)であり、しかも知的レベルも芸術的なセンスも群を抜いていた。
 「行政は才能を育てることはできない。その出現の土壌をこしらえることができるだけだ」という私の持論を深く理解していた。だが、広く浅く助成金を与えるという従来の行政手法を否定していた。真のパトロネージュとは彼の言葉を借りれば「一蓮托生」である。県民に対するアカウンタビリティーは自分が考える。長谷川はオマエの信じることをすればそれでいい。
 六年前、彼が癌で急逝したとき、「青森県の文化行政は一〇年遅れる」と考えたのは私だけではなかった。今では民間に移行したが「ファッション甲子園」の土台を作り、県立美術館にパフォーミングアーツ部門を作ろうと最初に構想したのも彼だった。「ハコモノは金さえ出せばできる。しかし、コンテンツはそうはいかない。これからの美術館に必要なのはスタティック(静的)な作品ではなくて、キネティック(動的)な演目だ」と堂々と語る彼は読書家で理論家で実践家だった。
 権利だけを主張する芸術団体への彼の態度は見事に行政的な振る舞いに貫かれていた。曰く「平等に助成を行うのは正しいことです。ただし、責任のないところに成果もあり得ません」「予算の半分は助成するにやぶさかではありません。そのかわりもう半分はあなた方がファンドレイズしてください」「向こう三年間の中期的な目標と、一〇年間の長期的な目標を出してください」
 後述するが、私は一晩で二年八本分の芝居のタイトルとシノプシスを書いたことがある。過剰さは日々の蓄積でしか発露しない。一年に一回だけ芝居をするというまるで「発表会」のような公演は演劇活動とは呼ばない。「文化祭という発想は私にはありません。そんなものは学生のときに卒業しました」。そう言い放つ白取功とは思いっきり喧嘩もしたが、徹底的に信用しもした。そして、行政が芸術文化に対してできることを両方から実施した。≫
(「第五章 地域の演劇から、より開かれた世界へ」より)