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新聞記事から   朝日新聞 2015年11月5日 夕刊

評・舞台 歌舞伎座「吉例顏見世大歌舞伎」 
海老蔵の信長 リアルな迫力

 今年の顔見世(かおみせ)は十一代目団十郎の五十年祭。成田屋の行く末はどうなるのであろうか。
 昼。十一代目が初演した「若き日の信長」を孫海老蔵が主演するのを見ると、祖父以来三代の芸風の違いが分かる。芸風の違いは当然としても、海老蔵が己の芸風をどう磨き上げいくのか。そこが未知数である。
 祖父の信長は乱暴者だが底に哀しみがあり、終幕、幸若の「敦盛」を舞って桶狭間に出陣する姿が、未来の本能寺の死をさえ予感させるようだった。十二代目は素朴な印象を刻んでいた。海老蔵は「私の生きざまもご覧いただける作品になるよう」と本人が筋書きで語るとおり、リアルな迫力がある。リアルな迫力は生の表現と紙一重である。
 「実盛物語」は染五郎初役の実盛が颯爽としている。「御所の五郎蔵」で菊五郎の五郎蔵が胸のすくたんかを聞かせる。
 夜「河内山」で海老蔵初役の宗俊は、松江侯を脅迫する演技が、毛糸玉にじゃれる猫のように軽い。せりふを口先だけで言い、そのかわいらしさを客が喜んでいる節もあるが、宗俊は豪胆な男で、またこの仕事に命をかけている。その妙味が失われている。十一代目はこの性根を失うことはなかった。
 「勧進帳」で幸四郎の弁慶は染五郎の富樫、松綠の義経と、相手が若いせいか、持ち前の涼しい弁舌を駆使して、難なく関所を越えていく。人間の対立から生まれる緊迫感に乏しい。 
 「元禄忠臣蔵 仙石屋敷」は名品である。仇討ちを遂げた仁左衛門の大石内蔵助が胸中を吐露するせりふの見事さ。言葉は魂がこもる時かくも美しい。梅玉の仙石伯耆守が感にたえたように聞く姿もいい。 (天野道映・評論家)


<今日の『贅言』>
 「成田屋の行く末はどうなるのだろうか」との書きだしを読んだだけで、この公演の、とりわけ現海老蔵の演技に対して、厳しい評価が下されていることは想像できた。海老蔵に「リアルな迫力がある。リアルな迫力は生の表現と紙一重である。」を読めば、リアルと舞台上での表現を履き違えているとの指摘だろうと思うのが一般的な受け止め方だろう。(私は縁戚でもあるので、もっと厳しく見てしまうのだろう。歌舞伎の基礎教育も充分には受けず、稽古も嫌い、西麻布辺りで夜な夜な遊びまわり、その揚げ句に同類と諍いを起こした虚けが、相変わらずに、そのままの気分で舞台に上がっているのだなあと。)
 この劇評記事の見出しは、「海老蔵の信長 リアルな迫力」である。決して海老蔵の、ではなく、成田屋の行く末を案じている評者が、リアルな迫力で感心したと評していないことは、いかに海老蔵の贔屓でも、或いは歌舞伎を観ることのない読者でも理解できる。(今どき、海老蔵ファンが朝日新聞の、それも歌舞伎劇評を読んでいる姿は想像し難いが)。
 しかし、「海老蔵の信長 リアルな迫力」である。
 この評の見出しを決めるのは、担当のデスク記者か、整理部記者かは知らないが、この見出しは、どう見ても見当違い、評の趣旨から逸脱している。この見出しと記事を読んで、思い出したことがある。歌舞伎の新聞劇評欄の執筆者が、ある俳優に対して厳しい批評を書いたことで、その批評に強く反応した製作会社、広告代理店が新聞社経営幹部、広告局に広告掲載の中止をチラつかせ、その社は圧力に抗しきれずにこの執筆者を降板させた、との噂話である。
 この見出しこそ、海老藏ばりに「リアルな迫力」を見せるであろう制作会社、広告代理店に配慮を利かせた、苦心の作である。

 歌舞伎評だけでなく、演劇評でも、宣伝にひと役買った者や、パンフレット、プログラムを製作、執筆した業者、ライターに、その作品の劇評を書かせて恬として恥じないのだから、いまさら何を言っても仕方がない、か。