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« 『草桔梗 蔵俳の碑へ 通う径』(小汐正実作)2005年6月4日掲載 | メイン | 「文化庁予算の大幅削減」について考える(二) »

「文化庁予算の大幅削減」について考える(一)

「新しい仕事は避けて、古い方式の範囲で無事にいたい、役人に共通した卑劣な希望」(大佛次郎)

  10日の参議院予算委員会で自由民主党の林芳正議員が質疑の中で紹介していたが、6月7日の読売新聞「よみうり時事川柳」にある投稿が載った。
[がんばろう日本 総理が続けても]。
 [がんばろう 官僚、議員が邪魔しても]とでも言いたくなる震災後3カ月の政府、国会の機能不全、怠業ぶりである。


 1日のブログ『2011年6月の推奨の本』で取り上げた、大佛次郎著『激流-若き日の渋沢栄一』は、いつの時代も変らぬ「役人の習性、行動原理」も鋭く描かれていて興味深い。 

 若き日、徳川一橋家の歩兵取立人選御用を勤めた渋沢栄一(篤太夫)は、一橋家の領地に出向き農兵募集に努めるが、≪新しい仕事はなるべく避けて、古い方式の範囲で無事でいたい、役人に共通した卑劣な希望≫を持った領地の代官の非協力、怠業ともいうべき抵抗に遭う。『激流』から引用を続ける。
 ≪これで幕府は亡びるのだ。何よりも篤太夫は、こう感じた。国全体がどういうことになっていようが、世の中がどう変わって来ていようが、自分だけの無事を願って動くまいとしている男たちが珍しくなく、どこにもいることなのである。殊に、それが政治をする役人に多いのだから、世の中が行き詰まるのも当然であろうが、また自分らの亡びるのを準備しているようなものであった。≫
  
 大佛次郎が国立劇場が開場した折に理事を務めていたことを思い出し、以前このブログでも取り上げたことのある石原重雄著『取材日記 国立劇場』を久しぶりに読んだ。
「新国立劇場の開館十年」を考える(六)≪国立劇場の理事だった大佛次郎の苦言≫2007年12月21日
 そこには大佛の発言として、≪「引き受けてみれば会議の連続、それも演劇のことなんかちっとも議論されない。すでに決めていることについて、責任逃れのため、われわれの同意を得ようということなんでしょうねえ。間違いをおこさぬように―、国会から叱られないように―と、それしか考えていないんだな」「目先のことばかり気をとられている感じですねえ」≫などと国立劇場の幹部に対する批判があった。
 また、岡本綺堂の弟子であった劇作家・中野實の言葉も面白いので拾ってみる。≪官僚で固めた劇場なんてまっぴらご免だ。彼らのやり方はいつでも秘密主義で、こんな具合でやりますと青写真が発表されたときは、もう文句のつけようがないんだな。≫

 渋沢栄一に戻ろう。
 ≪播磨、摂津、和泉などにある領地に手を着けようとしてみると、代官たちの態度が以前とは変わっていて、進んで協力してくれた。篤太夫が備中でこの仕事に成功したと伝えられていたので、代官たちは支配している土地で成績が上がらないと自分たちの面目に関わるからである。篤太夫は仕事を進めながら、昔からの役人たちの習性を知ることが出来た。実に動かない世界なのである。進んで行く時世と、どう調和して行くかを殆どの人間が考えようとしていない。ただ平凡な栄達と自分の地位を守ろうとしているだけなのである。≫

 
 今日から暫くは文化庁の現状、今年度事業やその予算執行のあり方などについて考えていこうと思う。
 震災、原発問題への対応もあり、国家の財政、政治の危機ともいえる状況で、取って付けたような日本の文化行政や、日本芸術文化振興会、新国立劇場など、吹けば飛ぶような組織の如き小事を論じるのか。取るに足らないとも思われる小事にこそ、この国の政治、行政、そして文化の本質的問題が存在しているからである。
 常に「本質は些事に宿る」のである。